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三日月の思い2

(……やっぱり家に少し寄って、話を聞くべきだったかな) 薫は、アパートの部屋に戻って、上着を脱ぎハンガーにかけながら考えていた。 しんと静まり返った自分の部屋には、ちょっと前までここにいた樹の気配の名残りが漂っている。 遊園地から一旦ここに帰って、夕飯にカレーライスを一緒に食べてから、名残惜しげな樹を促して、さっき実家に送って帰ってきたのだ。 夕飯を食べた後、樹はソファーに片膝を抱えて座り、ぼんやりしていた。部屋に来たばかりの時の緊張した様子はすっかりほぐれて、のんびりと寛ぐその姿は、拾ってきた仔猫がようやくちょっと馴染んできたみたいで微笑ましかった。 薫は机に向かって、明日の大学に持っていくレポートの続きをやりながら、時折ふっとよぎる樹との楽しかった時間に思いを馳せた。 樹は扱いやすい子どもではなかったが、時々見せる意外な表情がひどく印象的で、何というか……放っておけない感じがする。自分の世話好き気質も意外な発見だったが、いろいろと構ってやりたくなる不思議な子だ。 (……何をあんなに抱え込んでいるんだろうな) あの年頃の子は、いろんなものを1人で抱え込みやすい。真っ直ぐで真面目で、視野が極端に狭くなっているから、ちょっとしたことでも深刻になり、身動きが出来なくなる。今は成人している自分も、数年前に通り過ぎた道だからよく分かる。 学校のこと。勉強のこと。友人や先輩などの人間関係。恋や性に関する悩み。そして……家族との関わり方。 樹のことはまだほとんど分からないから何とも言えないが、あの頃の自分と同じで、家族との関わりで悩んでいるのだろうか。 自分が苦しかった時期、ガス抜きになるような逃げ場所はなかった。 樹が訪ねてきてくれて、せっかく兄弟らしい交流が出来た。もし樹が嫌じゃなければ、またここに遊びに来てくれるといい。 たいして頼りにはならない兄かもしれないが、独りで抱え込んでいる悩みがあるのなら、話を聞くことぐらいは出来る。薫自身はあの頃、誰かに自分の気持ちを聞いて欲しいと思っていた。別にアドバイスが欲しいわけでも、解決策を探して欲しいわけでもなかったが、ただ黙って聞いてもらえるだけでも、きっとずっと気持ちは楽だったと思う。 (……でも、今更、いい兄貴ヅラすんなって怒るかもな) なんだかさっきから、樹のことばっかり考えている。 薫は苦笑して、ちっとも集中出来ないレポートを放り出した。 ふと窓の外を見ると、真っ暗な夜空に、絵に描いたような三日月が浮かんでいた。 翌日から薫は、またいつものように大学とアルバイトの、単調だが忙しない日常に戻った。 樹のことは頭の片隅にいつもあったが、実家に電話して、もし父が出たら、少しは家に戻って来いだの、家族の食事会に顔を出せだの、ごちゃごちゃ言われそうで、何となく電話しそびれていた。 そうして迎えた木曜日。 薫は冴香にマンションに来てと誘われた。誕生祝いに、夕食を用意してくれるというのだ。その日、バイトは休ませてもらって、大学の講義が終わると一旦アパートに帰り、泊まるつもりで冴香のマンションに向かった。 冴香は割と家庭的な女だ。一見、料理などはやったことがなさそうなお嬢様風に見えるが、普段の食事もマメに自炊しているらしい。節約の為というより、料理をすること自体が好きらしく、腕前もなかなかのものだと思う。何度か、彼女の手料理をご馳走になっていたから、薫は今回も内心かなり期待していた。

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