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月無夜2
ある日、いつもならば1時間ほど過ごして帰っていく叔父が、急に今夜はここに泊まっていくと言い出した。樹は頷いて、叔父に教えてもらっていた勉強道具をまとめて、自分の部屋に戻ろうとした。
でも叔父に、せっかく時間が取れたのだから、もう少しゆっくり話をしようと引き止められた。家政婦さんが持ってきた紅茶とお菓子を一緒に食べたが、樹は正直、早く自分の部屋に帰りたくて仕方なかった。
「樹。もう眠いのか? なんだかぼんやりした顔をしているな」
そう叔父に言われる前から、樹は頭がぼーっとして、熱っぽいことに気づいていた。
「……部屋に……帰ります」
樹はそう呟いて、ソファーから立ち上がろうとしたが、身体がすごくだるくて脚に力が入らなかった。
「そんなに眠いのか? だったら奥のベッドに連れていってやろうな」
ソファーに座り込んで動けない樹に、叔父はそう言うと、ゆっくり近づいてくる。
「いいです。大丈夫」そう答えたつもりだったのに、舌がもつれて上手く喋れなかった。
(……なに……これ? 熱……あるのかな……)
目を開けているとくらくらして気持ちが悪い。樹はぎゅっと目を瞑って、ソファーに沈み込んでしまいそうになる身体を手で支えようとした。
(……ダメだ。手にも力が入らない)
薄目を開けると、叔父が上に屈みこみ、手を伸ばしてくるのが見えた。
「や……だ……触んなぃで」
樹は叔父と話すことに慣れてはきたけれど、やっぱりどうしてもこの人が苦手だった。叔父がスキンシップだと言って、身体に触れてくるのも、嫌だけれど我慢していた。
「じっとしてなさい。ベッドに寝かせるだけだよ」
叔父に抱きかかえられて、奥の寝室に連れて行かれた。叔父の腕からおろされてシーツに横になると、樹はほっとしてようやく身体の力を抜いた。もう目を開ける力も出ない。叔父が何か言いながら自分に触れてきた気がしたが、樹はそのまま気を失うように、闇に引き摺り込まれていった。
目が覚めると、もう朝だった。
部屋に叔父の姿はない。
樹は恐る恐る身体を起こしてみる。昨夜の変な眩暈は消えていた。でも全身が妙に気だるくて、もう一度ベッドに横になった。
(……風邪……かな……。まだちょっと熱っぽい気がする……)
昨夜の記憶を辿ってみたが、叔父にここに連れて来られた後のことは、まったく覚えていない。そのままただぼんやりと天井を見つめていると、ドアが開いて、母が顔をのぞかせた。
「樹。まだ具合悪い?」
「……うん……だるい……」
「今日は学校休むって連絡入れたから、ゆっくり寝てなさい。風邪かしらね。また熱があがるようなら、叔父さんが病院に連れて行ってくれるそうよ」
「……叔父さん、まだいるの?」
「下で朝食を召し上がってるわ。今日はお仕事が休みだから、1日あなたの様子を見ていて下さるそうよ」
母の言葉に、樹は眉を顰めた。
「母さんは……出掛ける?」
「ええ。ごめんなさいね。今日は……華を病院に連れて行く日なの」
華。可愛い妹。あの子のあどけない顔を思い出した途端、ずきっと心の奥が痛くなった。
「……そう。僕、1人で大丈夫だから、叔父さん、帰ってもらっていい」
「あら。せっかく仰ってくださってるんだから、お断りしたら悪いわ」
樹は母をじっと見つめた。
(……綺麗で優しい僕の母さん。ずっと1人で働きながら、苦労して僕を育ててくれた。ここに来てから、母さんはちゃんとお化粧して綺麗な服も着て、前よりずっと美人になった。幸せそうになった。母さんが居心地悪くならないように、僕だって努力しなきゃいけないって分かってる。でも……。
ねえ、母さん。僕、ほんとは元の家の方が良かったんだ。母さんと2人っきりでも、そんなにお金がなくても、鍵っ子でも)
「母さん……」
「なあに?」
「……帰りに……トゥエンティトゥのアイス、買ってきて」
母はちょっと目を丸くしてから、にっこりと笑って
「あなたがそう言うの、久しぶりに聞いたわね。分かったわ。帰りに寄ってくる。チョコミントでいい?」
「……うん。久しぶりに……食べたい」
母はすごく嬉しそうに、樹の頭を優しく撫でてくれた。
「じゃあ、大人しく寝てるのよ」
「……うん」
母が出て行った後も、樹はしばらく、ドアをじっと見つめていた。
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