56 / 448

第10章.朧月1

次の週の金曜日、薫はバイト先の社員からの飲みの誘いを断った。 (……もしかしたら、また樹が訪ねてくれるかもしれない) 別に根拠がある訳ではないが、何となく樹が部屋の前で待っている気がして、薫は途中で寄ったコンビニで、弁当の他に、樹が喜びそうなお菓子やデザートを買って、大急ぎでアパートに帰った。 部屋の前には誰もいなかった。 まあ、当然だ。今週末にまた来ると樹と約束していた訳じゃないのだ。 薫は、ちょっとがっかりした気分で鍵を開けて部屋に入ると、机の上にコンビニの袋を置いて、ため息をついて椅子に座り込んだ。 忙しく日々を過ごしていても、ふと樹のことを思い出した。実家に電話しようか、それとも訪ねてみるかと何度か考えはしたが、これまでの実家への関わりのせいで、結局実行に移せないままだ。 (……俺も優柔不断だよな。そんなに気になるんだったら、また自分から会いに行けばいいんだ) そうは思うのだが、先週訪ねて行って、樹に鬱陶しそうな態度をされ、叔父に勝ち誇ったような顔で追い返されたのが、かなり堪えていた。 せめてもう1度、樹の方から訪ねてきてくれれば、会いに行っても嫌がられないと自信を持てるのだが。 薫はもう1度ため息をつくと、コンビニの袋から弁当を取り出して、もそもそと食べ始めた。 『ピンポーン』 突然の呼び出し音に、薫は一瞬びっくりして、慌てて箸を放り出して立ち上がった。玄関に飛んでいって、急いでドアを開ける。 ドアの向こうに立っていたのは…… 「樹っ」 その声に、樹はびくりとして後ずさった。薫は靴を引っ掛けてドアの外に身を乗り出すと 「やっぱり来てくれたのか。ほら、入れよ」 薫がそう言って樹を手招きすると、樹は更に尻込みをしてから 「……いいの?俺、入っても」 「遠慮なんかするな。おまえが来るかもしれないと思って、甘い物買っといたんだぞ」 樹は驚いたように薫を見上げた。その樹の顔を見て、薫はちょっとドキっとした。樹の雰囲気が、前に来た時とだいぶ違うような気がする。 「おまえ……痩せたか?いや、髪型が変わったのか?なんだか随分……」 (……大人っぽくなった。……というか……なんだろう……やけに……色っぽい……?) ふいに、樹の身体が動いて、ぽすんっと薫の身体に抱きついてきた。予期せぬ行動に、薫は対応しきれず、思わず背後にたたらを踏んだ。樹に飛びつかれた状態で玄関に押し戻され、薫は思わず樹の身体を抱き締めた。支えをなくしたドアが勝手にガチャっと閉まる。 抱き締めた樹の華奢な身体からは、先日は感じなかった強烈な甘い香りがする。 (……なんだ……これ……?香水か?やけに……甘ったるいな……) 「おい、急に、飛びつくなって。危うくひっくり返るとこだった……」 薫はちょっとぼーっとしながら、樹の身体を引き剥がそうとした。樹はばっと顔をあげると、潤んだ大きな瞳で薫を哀しそうに見上げ、伸び上がって何か囁いた。よく聞こえなくて屈み込むと、樹は薫の首に腕を回して抱きつき、いきなり唇を押し当ててきた。 (……!?) 薫は一瞬何が起きたのか分からず、思わず息を飲んだ。樹はすかさず、薫の薄く開いた口に舌を差し入れてくる。自分の舌に、樹の熱い舌が絡み付いた。それだけじゃない。口移しで、何か平たいキャンディのようなものを舌に乗せられている。 薫は慌てて樹の顔を引き剥がそうとしたが、樹はものすごい力で薫の首の後ろをホールドして離れない。 樹が舌を動かす度に、口の中のキャンディーが溶けて、甘ったるさが増していく。その甘い味と香りに酔ったようになって、薫の頭はくらくらし始めた。視界がぐらつき、ついには立っていられなくなり、樹を抱きつかせたまま、玄関にへたり込んだ。

ともだちにシェアしよう!