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薄月2
「今はまだいなくても、そのうち君は、誰かを好きになるかもしれない。そしたらね、その相手と手を繋ぎたい、触りたい、キスしたい、裸でぎゅっと抱き合いたい。そんな風に自然に思えるかもしれないね」
月城の声は、ちょっと哀しそうだった。樹は彼の方を見て
「……月城さんは好きな人……いるの?」
樹の質問に月城はちょっと驚いたように目を見張ってから、柔らかく微笑んで
「うん。いるよ。大好きな人。でもずっと片想いなんだけどね」
「……片想い……」
樹はまた、義兄の顔を思い浮かべた。なんだか無性に、義兄に会いたくなった。
※※※※※※※
薫はクローゼットから折り畳みの小さなテーブルを引っ張り出して、部屋の空いているスペースにセットした。もともと食卓用にと、近所の中古店で買ったものだが、食事はいつも勉強机で1人で済ませていたから、ずっと使う機会もなく、仕舞い込んでいたのだ。
台所と部屋を何度か行き来して、炒め物や目玉焼きの皿などを、テーブルの上に並べていく。最後に、樹が作ってくれたおじやを温めてご飯茶碗に盛り、部屋の方へ運んで行くと、樹はベッドの上でむくっと起き上がり、半分寝惚けた顔でぼんやりしていた。
「お。起きたか。ちょうど今、飯の支度が出来たんだ」
樹の柔らかいくせっ毛が寝癖で跳ねて、頭の両側がつんつんと角になっている。まるで猫の耳みたいで、えらく可愛いらしい。
薫が思わず噴き出すと、樹は怪訝な表情になった。
「いや、おまえ。ものすごい寝癖だ。頭に耳が生えてるぞ」
薫の指摘に、樹ははっとした顔になり、慌てて頭に手をやって、跳ねた髪を押さえつける。
「ほら、来いよ。あ、まずは顔洗うか?洗面所の上の棚のタオル、使っていいぞ」
樹は髪を気にしながら、もぞもぞと布団から抜け出すと、無言で部屋を出ていった。薫は台所から箸やスプーンを持ってきて、樹が洗面所から出て来るのを待った。
数分後、樹はタオルで顔を拭きながら部屋に戻ってきた。薫が指摘した寝癖は、水で濡らして撫でつかせたらしい。
薫は、おずおずとテーブルに近づいてくる樹を手招きした。
「そこ、座れよ。ちょっと狭いし、床に直だけどな」
樹はこくんと頷くと、床に座ってテーブルの上を、まじまじ見つめている。
「ありがとうな。おまえ、これ、作ってくれたんだろう?さっきちょっと味見したけど、美味かった」
薫が指指す茶碗をじっと見てから、樹は顔をあげて薫を見た。樹は何故か不安そうな顔をして
「兄さん……具合……どう?」
「もう全然平気だよ。食欲も戻ってきた。正直腹ペコだ。さあ、食べよう」
薫が促すと、樹は何か言いたげに口をもごもごさせたが、結局何も言わずに箸を掴んだ。
樹は自分から積極的に何か話すタイプではないから、食卓の会話は途切れがちだった。でもその静けさが全然嫌じゃない。いつもより穏やかでゆるい時間が流れているようで、薫はなんだかほっとしていた。
「樹、学校では何か部活やってるのか?」
「……帰宅部」
「ふうん。運動は苦手か?」
「運動は……嫌いじゃない。でも……バド部入ってた時、先輩たちに部室で無理矢理服脱がされたから、嫌になって部活やめた」
炒めたウィンナーをもぐもぐしながら、何でもないことのように言う樹の言葉に、薫は危うくおじやを噴き出しかけた。
「何?それはいじめだろう。顧問の先生に相談しなかったのか?」
「先生にチクると、後でもっと酷いことされる」
薫はうーん……と唸って、考え込んだ。中学男子の部活なんてちょっと特殊な閉鎖空間で、集団心理が働いて、悪ふざけが度を超すのはよくあることだ。薫が中学の時の水泳部も、上下関係がやたら厳しくて、先輩連中の鬼のシゴキとか1年への無茶ぶりなんかは、日常茶飯事だった。部室で嫌がる一年生の服を脱がせるというのは、ちょっと悪質な悪戯ではあるけど、樹の言う通り、先生に言いつけるとその後の学校生活が、何かと面倒になるのだろう。
(……俺が仲のいい兄貴だったらな。部活辞めてしまう前に、樹の悩みを聞いてやったり、先生にそっと相談してやることも出来たのかもしれない)
後悔先に立たずだが、誰にも相談出来なかった樹の気持ちを思うと、薫は心の奥がずきっと痛くなった。
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