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第16章.碧い兎1

樹は、なかなかトイレから戻って来なかった。そろそろ様子を見てくるかと、薫が席を立ちかけた時、ようやく姿を現した樹は、まだちょっと目と鼻が赤くて、こちらをちらっと見て、バツが悪そうに目を逸らした。 「出るか? アパートに戻ろう」 薫がそう言うと、じっとテーブルの上のパフェを見てから、無言で頷いた。 「ちょっとスーパーに寄るぞ」 車の中でもずっと無言のまま、俯いていた樹が顔をあげる。 「今日は泊まっていくだろう? 冷蔵庫にロクなもの、残ってなかったからな。少し食材を買い足すぞ」 目の赤みは取れていたが、まだ腫れぼったい瞼が痛々しい。 (……いや。泣かせたのは俺なんだが) 樹は瞳を揺らして、そっと目を伏せた。 「俺、泊まっても、いいの?」 「ああ、もちろん。おまえが嫌じゃなければな」 「嫌じゃ……ない……けど」 「おまえ、他にどんな料理作れる? 俺もちゃんと手伝うから、また美味い飯作ってくれよ」 樹はちょっと驚いたように、顔をあげて薫を見た。 「兄さん、何、食べたい?」 「おまえが作れるもんなら、何でもいいよ。あ、出来れば魚が食いたい、かな」 樹は大きな目をぱちぱちして、首を傾げた。 「……さかな……」 「無理か? 無理なら別のでも」 「煮魚……で、いい?」 「お。作れるのか? 出来るんなら食べてみたいな。最近、煮魚なんて全然食ってないからな」 「……簡単なので……いいなら」 「よーし、決まりだ。じゃあ、材料買いに行くぞ」 薫がそう言って笑うと、樹はぎこちなく微笑んで、こくっと頷いた。 スーパーで食材を買い込んで、アパートに戻る。 樹はずっと沈んだ様子だったが、薫はなるべく明るい声で、樹に話しかけ続けた。 部屋に戻ると、樹はほっとしたように、部屋の隅の小さなソファーで丸くなって座る。夕飯の支度にはまだ時間があったから、薫は机に向かって勉強の続きを始めた。 薫は、勉強に集中するフリをしながら、樹に話を聞くタイミングを探していた。 気にかかっていた諸々のことを、もうこれ以上うやむやにしておくのはダメだ。 樹は話すのを嫌がるだろうが、あのまま独りで抱え込んでいたら、事態はもっと悪化していく気がした。 まずは何から聞いてみるか。やはり家族とのことだろうか。もし、家での状態に問題があるのならば、今度こそ自分は逃げないで、父や樹の母親に対峙する覚悟を決める。 さっきの樹の涙が、薫の心を揺らし続けていた。 「そろそろ、夕飯、作る?」 遠慮がちな樹の声に、薫は振り返り 「まだ、早いだろう。それより樹。俺とちょっと話をしないか?」 途端に樹の顔が強ばった。 「話……って、なに……?」 「おまえが家出したり、友達の家に泊まってる理由……聞きたいんだ」 樹はますます警戒したような顔になり 「……それ聞いて、どうするんだよ。兄さんに、関係」 「あるよ。俺はおまえが心配なんだ。なあ、樹。おまえは俺が落ち込んでいるって言ったら、心配して気遣ってくれただろう? 俺もおまえを心配したいし、何か悩みがあるなら話して欲しいんだよ」 「……」 「兄さんはさっき、大失敗したよな。おまえの気持ちも考えずに、月城ってやつを呼び出して、あんな所で話をした。おまえの心、傷つけたんなら、何回でも謝るよ。ただ、同じ失敗はもうしたくないんだ。だから、兄さんにほんとのこと、話してくれないか?」 樹を追い詰めたりしないように、薫はなるべく穏やかな口調で、ゆっくりと話しかけた。 樹はひざの上でぎゅっと手を握り締め、苦しそうに顔を歪める。 「俺に話すのは、嫌か? どんなことでもいいんだぞ。理由、自分でもよく分からないのなら、あの家にいる時に感じることとか、ちょっと気になってることとか。家出しようって思った時の自分の気持ちとか」 ああ……こんな言い方じゃダメだな、と、自分の中で声がする。 思春期の難しい年頃の少年に、こんな聞き方をしても、きっと反発するだけだ。 自分がこの年頃の時はどうだっただろう。ほんの少し前のことだったような気がするのに、思い出せない。 案の定、樹は唇をぎゅっと引き結び、ぷいっと横を向いてしまった。

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