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恋の予感8

「……なに?」 「う……い、いや、何でもないぞ」 このやりとりは、朝からもう3回目だった。ふと視線を感じる。目を向けると薫と目が合う。で、樹が質問して、薫は焦ったように目を逸らす。この繰り返し。 (……どうしたんだろ、義兄さん) 「兄さん、そこの油、取って」 「お? おー……っと、これだな」 昨日買ってきた油のキャップの包装を外して渡してくれる。 「衣、つけたから、今から揚げる。この小さい方のフライパンでいい?」 樹が小麦粉をまぶした鶏肉を調理台に置いて、フライパンを指差すと、薫は頷いて 「ああ、他にないからそれでいいぞ」 樹はフライパンに油を入れると火にかけた。熱している間に、魚焼き器を覗き、鮭の焼き具合を確認する。 「おまえ、手際いいなぁ」 「ご飯、炊けてたら、こっちのタッパーに広げて入れて」 「え。なんでだ?」 「おにぎり。握る時、炊きたてだと、熱すぎて火傷する。少し冷ましとくと楽」 薫は感心したように唸ると 「おまえさ、お母さんみたいだな。本気で俺のとこに嫁に来いよ」 「……やだ」 薫は炊飯器を開けて、しゃもじでご飯をタッパーに移しながら 「まあ、嫁は冗談だけどな。料理とか好きなら、将来そっち方面に進んでもいいかもな」 「そっち方面?」 「料理人。シェフっていうのか? 和食なら板前かな? おまえ器用だしセンスもあると思うぞ」 樹は菜箸で小麦粉をつまんで、油の中に落としてみた。ぽとんと落ちて、すぐ浮いてきてぱーっと泡がたつ。 (……うん。いい感じ) 衣をつけた鶏肉を、1個ずつ投入する。これは家政婦さんの手伝いで何回もやってるから、慣れている。 「あと、何をすればいい‍?」 薫の質問に、樹は菜箸で鶏肉をひっくり返しながら、考えた。 卵焼きは焼いた。ウィンナーも炒めた。ご飯炊いて、焼いた鮭をほぐして具にして、おにぎりを作る。あとは…… 「野菜、足りない。冷蔵庫に何かある‍?」 薫は冷蔵庫を開けて、野菜室を覗き込むと 「キャベツとにんじんは買ってあるぞ。あ、ピーマンもあるな。玉ねぎも残ってる」 「じゃ、野菜炒め、作る」 「よし。俺が切るよ」 薫は張り切って、材料を取り出すと、楽しそうに野菜を洗い始めた。 「義兄さん、大丈夫‍? 切るの、俺やるよ」 「大丈夫だ。野菜切るのぐらいは俺だって出来るぞ」 (……そうかなぁ……。あの手つきだと不安だけど……) 案の定、キャベツや玉ねぎを切る薫の手元が危なっかしくて、樹は横でひやひやしていた。 「不思議だな。玉ねぎ、今日はあまり目にしみないぞ?」 「冷蔵庫で冷やしてたから」 「ふぅん‍。そういうものか。ピーマンは半分に切るんだよな?」 「うん、ヘタのとこと中の種は手で取って」 樹は揚がった唐揚げをキッチンペーパーを広げた皿の上に並べていった。うん、いい色に揚がった。油の火を止める。 「っつ……っ」 薫が急に変な声を出した。樹は慌てて駆け寄る。薫の左手の指が、切れて血が出ていた。 樹は義兄さんの手を掴むと、傷の具合を見た。そんなに深くはないみたいだ。ちょんと指先を突いた感じ。でも血が出ている。 樹は咄嗟に薫の指を、ぱくっと咥えた。 「……っあ、樹……っ」 朝、樹が目を覚ましてから、まともに目を合わせられなくて、薫は困っていた。たまに目が合うと、なんだか妙に眩しくて、慌てて目を逸らしてしまう。 (……こら。普通にしてろって。樹に不審がられるだろうが) そうは思うのだが、相変わらず綺麗な樹の顔を見ていると、夢の中の樹と重なってしまう。 潤んだ目。目元をうっすらと染めて、縋るようにこちらを見る。赤く濡れた唇。ちろちろと蠢く小さな舌。 (……うわぁぁっ。だからだめだっていうんだ。妄想消えろっ) どきどきの入り混じった罪悪感。最悪だ。最低だ。 樹が怪訝な顔をしている。だめだ、落ち着けよ。 そろそろ弁当を作ると樹が言い出して、一緒に台所に立った。料理に集中している樹の真剣な顔を、薫はそっと横目に見ていた。夢の中の大人びた樹も美しかったが、本当に綺麗な子だと思う。 じろじろ見ていたら嫌がられると分かっているのに、どうしても目が離せない。 調理中に指を切った。包丁がすべって、ピーマンを押さえている方の指の先を、少し突いた程度だが、樹はものすごい形相で指を見つめて、いきなりぱくっと口に咥えた。 ビリ……っと痺れが走り抜けた気がした。これは傷口の痛みなんかじゃない。指先に心臓があるみたいに、どきんどきんと熱く脈打っている。ちゅうちゅうと指を吸う樹の赤い唇から、目が離せない。 狼狽えている薫を、樹が心配そうに上目遣いで見あげた。指を咥えたままで。薫の心臓がまたドキンっと大きく跳ねた。

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