樹はさっきからホッキョクグマのいる檻の前で金縛り状態だ。 園に入った時から、無表情な樹なりに、かなりわくわくしてる様子なのは分かっていたが、思った以上に間近で見られる動物の迫力に、大きな目を真ん丸にして夢中になっている。 (……可愛いよなぁ……) 園内ですれ違う、どのカップルの女の子よりも、樹が一番可愛く見えるのは、自分がどうしようもない兄馬鹿だからなのか？ 女装しているわけではないのだが、淡い色のスラックスに、Ｔシャツの上には俺の薄手の丈の長いパーカーを羽織り、男の子にしては長めの髪型の樹は、ちょっとボーイッシュな女の子に見える。 (……傍から見ると、隣の俺は完全なロリコンだよなぁ……) すれ違う人が、樹の顔に見とれてから、こちらをちらっと見るその微妙な表情が、ちょっと気になっていた。 いや、これは弟ですよ。 ……などと、聞かれてもいないのに、その度に心の中で言い訳している自分がいる。 別に普通に並んで歩いているだけだったら、年の離れた兄弟に見えるだろう。でも、デートに連れて行ってやると言った手前、薫は樹の手を繋いで歩いているのだ。いくら仲の良い兄弟でも、２０歳と中学生の男が手を繋ぐってのは……普通はしない……よな。 もちろん抵抗がなかった訳じゃない。だが、園の入口で目の前を行くカップルが、恋人繋ぎで楽しげに歩く姿を、樹はじーーっと見つめてから、隣の自分を例の上目遣いで見上げてきたのだ。 ……手……繋がないの？ デートでしょ？ 樹は何も言葉を発していない。ただ、そう聞こえてしまった。樹の無言のおねだりが。 「……手……繋ぐか？」 プレッシャーに負けて薫が恐る恐る問い掛けると、樹は一瞬目を輝かせてから、慌ててぷいっとそっぽを向いた。 重ねて言うが、樹は何も言っていないのだ。ただ、樹が一瞬だけ見せた嬉しそうな顔が可愛くて、手を繋いでやりたくなってしまっただけだ。 前にこの動物園の真向かいにある遊園地に、樹を連れてきた時は、自分は可愛い弟を遊びに連れてきた、ごくごく普通の兄貴だったはずだ。どうして今回は、こんな余計なことばかり気にしてしまうのか……。 まあ、自分の気持ちの問題なのだろう。 ぼんやり余所事を考えていたら、樹がくるりと振り返った。相変わらず表情は乏しいが、少しゆるんだ頬に『満足しました』と書いてある。 「次、行くか？」 こくんと頷く樹に、手を差し出すと、樹はちらっと周りに目をやってから、そっぽを向きつつその手をぎゅっと握った。 (……いや。やっぱり可愛いな) 今、大学の友人なんかにばったり出くわしてしまったら、言い訳するのが苦しい状況な気もするのだが……。 薫はそっと隣の樹を盗み見た。視線を感じたのか、樹がこっちを見上げる。 小首を傾げ、なに？ っと無言で問うてくる樹の表情が愛らしくて、薫はにこっと笑って誤魔化した。 「象、見に行ってみるか？ あっちの広いエリア。キリンやライオンもいるぞ」 途端に樹は目をぱちぱちさせ、指差す方をじっと見た。 「よし。そっち一通り回ってから、中央の広場で弁当食うか」 薫は妙にうきうきした気分で、樹の手をぎゅっと握り直し、歩き始めた。 (……うわぁ。すごい。義兄さんと手、繋いでる。ほんとにこれ、本物のデートなんだ……) 駐車場で車から降りて、動物園のチケット売り場で薫が２人分の入場券を買ってくれて、ゲートをくぐる。すぐ前を歩くカップルが、手を繋いでぴとっとくっついてるのを、樹は思わずじっと見つめてしまった。 (……恋人……だよね？ ……いいなぁ……すっごく楽しそう) 薫は、樹とデートだって言ってくれたけど、２人はやっぱり兄弟なわけで……。月城さんの代わりに恋人になってくれるっていうのも、心配して言ってくれただけだって、ちゃんと分かってるつもりだ。 (……義兄さん、優しいから) だから、本当の恋人みたいにはなれなくたって、頭の中で勝手に想像して、本当のデートだって思い込むことにしていた。それだけで充分幸せだから。 それなのに薫、こちらの気持ちが分かったみたいに、手を繋ぐか？ って言ってくれて……。 なんで分かっちゃったのだろうと、恥ずかしくなったけれど、ちゃんと手を、繋いでくれた。 (……うわぁ……どうしよう……。なんか足がふわふわして地面に着いてない感じだ……) 初めて来る大きな動物園で、それだけでも樹はわくわくしていたが、薫と恋人みたいに歩いてたら、他のものは全部吹き飛んでしまった。繋いでる手から、薫の体温が伝わってきて、樹はずっとドキドキしっぱなしだ。 (……僕は神様なんか信じてないけど、今この瞬間は、いるか分かんない神様に感謝しちゃった。夢なら覚めないでって思うくらい、幸せでふわふわする) でも、すれ違う人が皆、こちらを不思議そうに見比べてるのに気づいて、樹はだんだん不安になってきた。 薫は気にしている様子はないけれど、男同士で手繋いでるのは、やっぱり変かもしれない。 自分は変に思われても全然いいけれど、義兄が恥ずかしい思いするのは……嫌だ。 (……でも……この手、離したくないな) 薫と一緒に象やキリンを見ながら、樹はどうしたらいいか考えていた。そして、すごくいいアイディアが浮かんだのだ。 今日はもう仕方ないけど、この次もし一緒にデート出来たら、樹は思いついたアイディアを使ってみようと心に決めた。