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隠れ月8
通路の突き当たりを曲がった奥の機能性トイレは、「使用中」のランプがついていた。しばらく待ってみたが、なかなか出て来ない。念の為に男子用トイレも覗いてみたが、樹の姿はなかった。
(……いくらあの格好でも、流石に女子トイレには入らないよな)
薫はもう1度、機能性トイレの前に行き、少し離れた位置で、壁に寄り掛かって腕を組んだ。
樹かどうか、声をかけてみようか。だがもし違ったら、ちょっとバツが悪い。というより、もし樹だったとしても、用を足している相手に、早くしろと急かすようなことはしたくない。
樹は思春期の難しい年頃だ。本当は外でこんな風に待っているのも、嫌がるかもしれない。
(……もう少しだけ待ってから、ちょっと声をかけてみるか)
「は? 何だよ、これ」
前に屈んだ男が、ちょっと呆然とした顔で呟いて顔をあげた。その男の手が触れているのは、樹の股間だ。
「何がだ、どうした? 早くしろって」
後ろの男が苛立つのを無視して、前の男は樹の顔を睨みつけた。そのまま無言で、肌蹴た胸にかろうじてまだ留まっていたブラジャーを、むんずと掴んでずり下ろす。
「やっぱりだ」
「おまえ、何言ってるんだ? おい」
男はイライラした顔で樹を睨みつけながら
「男だよ、こいつ」
「あ?」
「くそっ。騙されたぜ。こんな格好してんのに、男かよっ」
忌々しげに吐き捨てた男の言葉に、後ろの男が樹から手を離し
「男? こいつが?」
「ああ。触ったらちんこついてやがった。胸もぺたんこだ」
羽交い締めを解かれて、隙をついて逃げ出そうとする樹の腕を、後ろの男が掴んで、自分の方を向かせる。
男はブラジャーがずり落ちて完全にあらわになった、樹の左胸を見て舌打ちした。
「オカマかよっ。くそっ」
男は低く唸ると、もがく樹の首に両手を伸ばした。
大きな手で首をがしっと掴まれて、樹は身体を強ばらせた。
男は恐ろしい目付きで、睨みつけている。殴られるだけでなく、殺されそうだ。
(……義兄さん……っ)
ぎりぎりと首を絞められながら、樹は手足を必死に動かした。男の締め付けは容赦がない。苦しくて、だんだん頭がぼーっとしてきた。
(……僕……死ぬのかな……)
今日はずっと、特別な1日だった。
義兄さんとデート出来た。
恋人みたいに腕を組んで歩けて、綺麗な色のリップクリームを買って貰えた。
一緒に映画を観れた。その上、ボウリングを教えて貰えた。
ふわふわと雲の上を歩いているような、夢見心地の時間を過ごせた。本当に信じられないくらい幸せな、スペシャルデーだったのだ。
(……いいこといっぱい、あり過ぎたのかな……)
目の前が霞んできた。
(……義兄さん……)
「おい、やめろって。死んじまうだろーが」
前にいる男の焦ったような声が、すごく遠くから聴こえる。
そのまま意識が遠のきかけた時、ドアの向こうから声が聴こえた。
『樹? おい、樹か?』
ドアがノックされる。男たちがはっと息を飲んで、ドアの方を見た。首を締め上げていた手の力がゆるむ。
「誰か来た!まずいって。なあ、そいつ放せよ。やばいってば」
もう一人に促されて、男が完全に手を離す。
樹は支えをなくして、ずるずると床にへたりこんだ。
『中にいる人、大丈夫ですか? もしかして、気分が悪いんですか?』
ドアの向こうから、さっきより大きな声が聴こえてきた。
(……あの声は……義兄さん……)
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