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月の舟・星の海1
トイレを出てからずっと縮こまっていた樹が、両手をこちらの首に回してしがみついてきた。まるで貝のように固く閉ざし、差し伸べようとする手を拒絶していた樹が、ようやく自分を頼ってくれた。薫はほっとして、樹の髪をくしゃっと撫でて
「ココア、飲むか? 樹」
「ごめんなさ……」
「謝るなよ、樹。おまえは何も悪くないぞ。たちの悪いやつらに目を付けられただけだ」
怪我はさせられずに済んだが、怖い思いをしたのは事実だ。当分の間は、今日のことを引きずるだろう。何を言っても慰めにはならない。とにかく今は、樹の気持ちが落ち着くまで、心穏やかに過ごさせてやるしかない。
薫は樹を抱きつかせたまま、自分もソファーに腰をおろした。
優しく髪を撫で、背中をとんとんと軽く叩く。
普段の樹ならば、子ども扱いするなと怒るだろうが、樹は黙ってされるままに大人しくしていた。
「にいさん」
「ん?」
「ココア……冷めちゃう」
腕の中の樹が、もぞもぞと動く。薫は手をゆるめて、その顔を覗き込んだ。
「飲むか? じゃあ、あっため直してくるぞ」
樹は首を横に振って
「だいじょぶ。僕……猫舌だから」
「んー。わかった」
腕の中に樹を閉じ込めているのが心地よくて、本当はまだこうしていたかった。
薫はそんな自分に苦笑して、しぶしぶ腕をほどく。樹はちょっと赤い顔をして、もそもそとソファーに座り直した。
薫は立ち上がってクローゼットに向かい、中から自分のまだ新しいシャツを取り出すと
「樹。パスタを茹でるから、ちょっとお湯沸かしてくるな」
そう言って、樹にシャツを渡し
「これに着替えてろ。ちょっとデカいけど、我慢な」
首を振って何か言おうとする樹に微笑みかけ、キッチンに向かった。
薫に手渡されたシャツを手に、樹はしばらくぼんやりしていた。
襲われた恐怖で凍りついていた感情が、少しずつ戻ってくる。
あんなことが起きたのに、今、樹が感じているのは、薫の腕の中の温かさと、それが離れていってしまった寂しさだった。
(……もっと……抱っこしてて欲しかったな……)
こんな甘えたことを考えている自分が恥ずかしい。
小さな子どもじゃないんだから。
そうは思うのだが、薫の腕に抱かれて、心臓の音を聴いていたひと時があまりに心地よくて、1人ソファーにぽつんと座っている状態が、何だか心もとない。
(……僕ってやっぱ、変なのかも)
トイレでの出来事はもちろんショックだった。あんな風に見知らぬ男たちに、襲われたのなんて初めてだ。
怖かったし、身体を触られたのは気持ち悪かった。悔しくて哀しかった。首を絞められて、気が遠くなっていくあの瞬間を思い出すと、また身体が震えてくるし、心臓がドキドキして、吐き気までしそうだ。
でも、薫が来てくれた。
心の中で何度も助けを呼んだ義兄が、心配して様子を見に来てくれた。あの時、義兄が声を掛けてくれなかったら、自分は気を失っていただろう。
(……もしかしたら、殺されちゃってたかも)
薫はひどく動揺した様子だったが、パニックになっていた自分を守るように、大きな身体で包んでくれた。余計なことは何も聞かずに、ただただ抱き締めてくれた。
「にいさん……」
思わず、心の中の呟きが声になって零れ落ちて、樹は慌てて、キッチンの方を見た。少し開いたドアの隙間から、薫が動き回っている様子がちらっと見える。
(……着替え……しなきゃ)
ようやく、頭が正常に動き始めた。樹は手に持ったシャツを膝に置いて、薫から借りたジャケットを、そろそろと脱いでみた。
(……っ)
分かってはいたけれど、自分が着ていたブラウスは胸元がびりびりに破けていた。ボタンが弾け飛んでひとつなくなっている。中の薄い下着も少し破れていた。
樹はぎゅっと目を瞑って、また込み上げてきた涙を、目の奥に閉じ込める。
湧いてきたのは恐怖ではなく、激しい怒りだった。
義兄の為に選んだ服。
すごく似合う、可愛いと、義兄が言ってくれた大事な服。
夢のように幸せで、楽しかった義兄との時間。
それが、引き裂かれた。
見知らぬ男たちの、理不尽な暴力で。
(……悔しい。悔しい。悔しい)
樹は目を瞑ったまま、少し乱暴にスカートからブラウスの裾を引き出し、残っているボタンを外していった。大切なデートを台無しにされた悔しさごと、カーディガンとブラウスを一緒に脱ぎ捨てる。
それを思いっきり床に叩きつけても、怒りはなかなかおさまらなかった。
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