200 / 448
月の舟・星の海3
シャワーを浴びるだけなら、そろそろ出てくるだろうと見当をつけて、パスタを茹でてしまった。買い置きのミートソースの缶詰を温め、茹で上がったパスタにたっぷりとかける。
薫は奥の浴室のドアを見つめた。微かな水音は聴こえてくる。樹はなかなか出て来ない。
(……いくら何でも……長くないか?)
薫は首を傾げ、浴室へと向かった。
さっきの樹の能面のような表情が気になっていた。急にガラリと雰囲気が変わってしまったのも。
(……思い出して気分が悪くなっているのか? もしかしてまた、泣いている?)
ドアノブに手をかけ、一瞬躊躇してから、薫は思い切ってドアを開けた。
「樹。大丈夫か?」
なるべく驚かさないように声をかけたつもりだったが、樹はぴょこんっと音が聞こえそうなほど飛び上がった。弾みで手に持っていたスポンジが、弧を描いて床に落ちる。
「あ、あ。すまん。びっくりさせ」
「にいさんっ」
樹は上擦った声でこちらの言葉を遮ると、くるっと背を向けて
「あっち、行ってよっ。なんで、入って来るんだよっ」
浴室に樹の悲鳴のような声が響いて、薫は息を飲んだ。
驚いたり嫌がったりするかも
?とは思ったが、そんな反応は予想外だった。
さっきは、自分の前で堂々と素っ裸で歩いていたのに。
「あー……悪い。あんまり遅いから、おまえ具合が……」
樹はくるっと首だけこちらを向いて
「いいから、出てってよっ」
怒鳴る樹の目が、さっきより
真っ赤だ。……というか、真っ赤なのは目だけじゃなかった。薫は目を見張り、出て行くどころか樹につかつかと歩み寄った。
「首のところ、どうしたんだ? やっぱり怪我してるんじゃないかっ」
樹の激しい動揺が移ったのか、思ったより大きなキツい声になった。樹は一瞬、怯んだような顔になり、浴槽の中でじりっと後ずさる。
樹の首が真っ赤になっている。いや、首だけじゃない。腕もだ。
薫は怯えたような樹の様子に構わず、近寄って腕を伸ばした。
「見せてみろ。どうしたんだ、これ」
さっき樹の全身を見た時には気づかなかった。あの時は、見ないように咄嗟に目を逸らしていたが、こんなに真っ赤だったら気づいたはずだ。
「触らないでっ!」
樹が叫んで縮こまった。薫ははっとして、伸ばしかけた手を止める。
(……どうしてこんな……。樹が自分でやったのか?)
薫は床に落ちたスポンジに目を落とした。
樹の腕や首の赤み、あれは傷ではない。何かで強く擦ったような跡だ。
(……擦っていたのか。あんなに真っ赤になるほど?
……それも、泣きながら?)
身体の小さな樹が、浴槽で更に縮こまっている。まるで消えてなくなりたい、とでもいうように。
薫は混乱しながら、浴槽の樹に再び手を伸ばした。
「なあ、樹。どうしたんだ? 何があったのか、兄さんに話してくれないか?」
大きな声にならぬよう、詰問口調にならぬよう、穏やかに優しく声をかける。
躊躇いながら、そっと頭に触れてみた。樹はぴくりとも動かず、何も答えない。
薫は屈みこみながら、指先でそっとそっと何度も髪を撫でた。
「樹。おまえが辛いと、俺も辛い。頼む。教えておくれ」
あんなことがあってショックを受けただろうと思って、あまりしつこくそのことには触れないようにしていた。
でもその気遣いは、間違っていたのかもしれない。
樹は自分で抱え込んでしまう性格だ。そっと独りにしておくよりも、多少辛くても、吐き出させてしまった方がいいのかもしれない。
ともだちにシェアしよう!