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月の舟・星の海5

我ながら、無茶苦茶言っているよな……とは思う。 自分のこの手で洗ったら、1発で綺麗になる。 もちろん舐められた汚れなんか、この手じゃなくても石鹸で洗えば綺麗になる。でも樹が気にしてるのは実際の汚れじゃない。気持ちの問題なのだ。 こんな子ども騙しな言い草で、樹の気持ちが拭えるはずはない。 兄さん、魔法使いかよ。 普段の樹なら、そう鼻で笑って呆れるかもしれない。 でも、薫としては、それぐらいの思いだったのだ。 自分のこの手で拭ってやって、樹のショックが消えるなら。 今日の嫌な出来事を、なかったことにしてしまえるなら。 いくらでもこの手で洗い流してやりたい。そんな思いがつい、言葉になって零れた。 「にい、さんっ」 不意に、樹が両手を伸ばしてきた。顔をくしゃくしゃに歪めて、涙をぽろぽろ零しながら。 薫はその手を自分の首に回させながら、樹の脇に腕を差し入れて抱き締めた。 自分と樹を隔てる浴槽の壁が邪魔だ。 薫は、樹の細い身体を抱き締めながら、立ち上がった。 完全に立ち上がると、小さな樹をぶら下げてしまうから、樹の背に合わせて腰を屈めた。 うわーんっとでも言うような声を出して、首にかじりついた樹が泣き出した。 さっきまでの、声を潜め心を押し殺した泣き方じゃない。まるで感情を発散させる小さな子どものような、大きな泣き声だった。 いつもの樹に比べて、酷く幼い印象だが、薫はそれでいいと思った。 嫌なことや辛いことがあった時に、内に籠るような泣き方をしてもダメなのだ。押し殺せば押し殺すほど、気持ちはどんどん滅入ってくる。 今の樹に必要なのは、感情を表に出させること。 嫌だった、気持ち悪かった、ムカついた、悲しかった、悔しかったと、全部吐き出してしまえばいい。 ようやく本気で、自分に心をさらけ出してくれた樹に、薫はほっとして、その華奢な身体をぎゅっと抱き締めた。 『俺の樹』 (……聞き間違いじゃない。義兄さんが、言ってくれた) 『俺の樹は心が綺麗だから、汚れたりしない』 薫の力強く優しい言葉が、頭の中で繰り返し繰り返し響いている。 どす黒い染みが、身体中に広がっていくような恐ろしい焦燥感は、薫のそのひと言で、一気に吹き飛んだ。 (……義兄さんが言ってくれた、魔法のようなひと言で) 同時に、それまで押さえ込んでいた気持ちが、堰を切ったように溢れ出した。 樹は薫の首にしがみついて、大声をあげて泣いた。

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