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新居、決めました篇 6 とっても悪い、タイミング
「あの、誰か、来てたのか?」
要が会社の受付フロアまで迎えに来ていた。間一髪、あと、ほんの数メートル外に要が出て来てたら、あの下半身バカが要を見つけてた。
「あー、いや……」
困った。弟だって言ったら、クソ真面目な要は挨拶したがるだろ? それは困る。絶対に無理。ひと目だって合わせてやるわけにはいかない。要が微笑んだ瞬間、あいつの視線は釘付けになるだろうから。
「前の」
今、俺のことを真っ直ぐに見つめるこの綺麗な瞳をあいつは絶対に見たがる。そして、独占したがるに決まってる。
「前の、課長の時に、世話になってた外注さん」
「……ぁ、前の」
それなら要は知らなくて当然だ。もう今は取引がないけれど、また、何かあればって声をかけてくれただけの話。そう適当に話を作った。
「そうか……」
「あぁ、あ、それと、俺、明日から一泊で出張だ」
タイミング、けっこう悪いよな。若干、要が何かを思って不安を感じている、今のこの状況で、俺はあのバカ弟のことを隠さないといけないこの中で、ここを一晩だろうと離れなくちゃいけないんだから。
「ごめん、急遽決まったんだ」
ほら、要の真っ黒な瞳が大きく見開いて、たった今不安が増したって教えてくれる。俺のこの言葉にものすごく不安になったって、心細いって、無言で訴えてた。上司だから、ここはまだ職場だからこれ以上、プライベートな話はできないってこみ上げ来る不安を必死に押し戻してるのがわかる。
「何時に出発なんだ? 日帰りで行くはずだったところなのか?」
そう、最初は日帰りだった。打ち合わせだけのはずだった。それが向こうで不良が発見されたらしくて、本当は現場に人間が行って選別だなんだって対応するんだけど、ちょうどいいタイミングで営業の俺がそこに行くから、それなら営業だけど会社の問題なんだと、俺が不良の対応まで任されたんだ。だから、その日のうちに帰ってこれなくなった。そう、事実を説明すればするほど、俺を見つめる真っ黒な瞳が不安の色を濃くしていく。
そして、俺もそれを解消しようと説明を細かくすればするほど、言い訳みたいにしか聞こえなくて、どこか白々しくて仕方がない。
「始発で……」
だから、始発で行かないといけないのは本当なのに、まるで、今夜、要と会うことはできないって、暗に伝えているみたいに聞こえて、イヤで仕方なかったよ。
始発の電車は寒い。暖房はついてはいるけど、足元ばっかりが熱くなるだけで、身体は冷える。
「……さみぃ」
そう、独り言を呟きたくなるくらい、一車両を悠々と独占できてた。
客先は関西だから、こっちほど寒くはないんだろうな。予定はみっちりだ。朝、向こうについてすぐ、不良の対応の打ち合わせをして、そのあと、営業との打ち合わせも時間通りに行われる。
不良の選別もしないといけないんだっけ。もちろん、一日で終われる量じゃないから、今日の夜までやっても、きっと終わらないよな。
そう思いながらもスマホでこっちに帰ってくる場合の乗り継ぎ時間を検索してた。ギリギリで何時に向こうを出たら、うちまで帰ってこれるかって。豪には出張って行ってある。女を連れ込んだら、本当に追い出すからなって、何度も釘を刺しまくっておいたからきっと大丈夫。さすがに昨日、寝る直前にはげんなりした顔だったから。
「……」
どうにかしてギリギリで帰ってこれねぇかな。要に会いたい。花織課長じゃなくて、要に。
ホントにタイミング最悪だな。不良が客先で出たのも、豪が帰ってきたのも、そもそもこの出張も、全部、タイミングが見事なほど最悪だ。でも、この沈んだ気分が一瞬で吹き飛ぶ方法を俺は知ってる。
――高雄
要が俺の名前を呼んで、笑ってくれたら、それだけで最悪って言葉が消えてくれるのに。だから、要の笑った顔を思い浮かべたくて、誰もいなくて静かな電車の中でそっと目を閉じた。
客先についてからは落ち込んでる暇もない。まずは不良の件で謝罪をして、今、うちの会社のほうでどういう対応、対策をとっているのかを説明してから、今度は現場のトップとの打ち合わせ。ただ、その打ち合わせが長引いた。話をしながら、頭の中じゃ、さすがに日帰りは無理そうだと、時計の針が進む度に少しだけ落ち込んだ。
結局選別を始められたのは夕方からで、もう完全にアウト。そう思って、溜め息をひとつ、早く帰りたい気持ちと一緒に吐き出す。
「お疲れ様です」
「あ……今回は申し訳ありませんでした」
始めなきゃ終わらない。そう思って、スーツのジャケットを脱いだ時、扉が開いて、知った顔が見えた。この客先の営業担当だ。何度も打ち合わせで顔を合わせたことがあるけど、今日は一日外出って言ってた。その人が今戻ってきたばかりなのか、スーツ姿で顔を出してる。
「いやいや、お互い様ですから」
「ご迷惑をおかけしました」
深く頭を下げると、おおらかな声で大丈夫ですと言ってくれた。雰囲気がうちの営業の先輩に似てる、穏やかな人だ。
「あ、そうだ、うちのほうであらかた選別しておきましたから」
「……え?」
さすがにこの量をひとりで、しかも本職でもない営業がこなすのは大変だ。自分だったらそう思うから、こっちのほうで何人かにお願いしてあらかた選別は終わっていた。でも、まだ全てじゃないけれど、と言って笑っている。
「あ、あの」
「庄司さん、年末に短納期のワガママをたくさん聞いてくださったから、そのお礼です」
そうだった。年末にバタバタッと仕事をくれたっけ。前の課長がまだいたら、きっと年末のあのクソ忙しい時にそんなことを言われても対応できなかった。でも、要はそういうのすげぇしっかりしてるから、年末だっつうのに仕事は整然と進んで、あの師走特有の忙しさの中でもバタつかずに済んだんだ。
「選別! ありがとうございます!」
「いやいや、これで恩をひとつ売れましたので、また短納期対応、ぜひ」
「! はいっ!」
今、きっとどんだけ無理な短納期でも対応してみせるって、思えたよ。
「泊まりじゃなくても大丈夫かもですね」
「あ……はいっ、あの、ありがとうございます!」
そう言われて、きっと俺は無意識のうちに表情を明るくさせたのかもしれない。つられたように向こうの担当も笑って、そこで社内放送で内線がって呼び出され、席を離れた。
俺、今日帰れるかもしれない。今朝、始発の中で、しょぼくれながら調べた電車の時間にはまだ間に合う、かもしれない。今から、すげぇ必死でやったら、家に――
「!」
家に帰るかもしれないって思った時だった。スーツの内ポケットに入れておいたスマホが着信を知らせるために振動してた。
『もしもし? 兄貴? 兄貴の彼氏って、すっげぇ美人だね』
電話に出ると、うちの親ですら間違えるほどに俺と同じ声で、豪が楽しそうにそんなことを言っていた。
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