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アンソニーとマリー編 3 三度、青天の……
まさか大号泣が見られるとは思わなかったな。
――よ、よし! 心の準備はできた!
クッションを抱えて、壁に寄りかかるのも、背後に何もないのも怖くて落ち着かないからと、俺の懐に入り込んで。ぎゅっと小さく丸まったまま、予告映像が流れ始めたテレビ画面に身構えてた。
そこまでして見なくてもいいのに。最初、これは? って、提案した時点で却下されればすんなり要が好きなサスペンスものに変えていた。なのに、怪訝な顔はしたけれど、それを受け取り、カウンターに自分で持っていくから、案外平気なのかと思ってた。
けど、やっぱり苦手らしく、前半、ゾンビが散歩しまくってるシーンの時は小さな音にさえ縮み上がってたっけ。
――だだだ、大丈夫だ! 見る!
まるでその場に自分もいるように慌てた様子を思い出して、ひとり、休憩室でクスッと笑ってしまう。
何をあんなにムキになって堪えてんだか。要は、けっこう負けず嫌いだからな。きっと、俺に対抗心を燃やして、ホラーくらいどうってことないって思ったんだろ。あの人のそういうとこも、俺は。
「あ、庄司さんだ」
「……」
最悪だ。休憩所で名前を呼ばれて、顔を上げて、そして溜め息が零れた。
「こんちはぁ」
あのドラ息子だ。
「……あぁ」
一緒にいたら、それこそ殴りたくなる。だから、まだ飲みかけだったホットコーヒーを流し込むように飲んで、お前が来たから帰るとわかるようあからさまに態度で示そうとした。
「庄司さんて、モテそうっすよね」
「……は?」
ドラ息子は空気も読めないらしい。これだけ怪訝な顔をしているのも全く気にせず、にこやかな笑顔をこっちへ向けている。
「前はもっとずっと笑ってる感じがしたけど、最近はそうでもなくて、そこがまたいいとか。一昨日だったかなぁ、経理の女の人が話してました」
「……あっそ」
「俺もそのほうがいいと、」
「それより、お前、昼前に課長に頼まれた資料まとめたのか?」
「へ?」
ぽかんとした顔を見て、普通にこめかみの血管が引きつれるような感覚があった。よくこんなの教育係りを連日やってられるな、要。
今日は午後から顧客のところで打ち合わせがあるからと外出してた。それで留守にしてる間に仕事を頼まれてるはずなのに、この馬鹿ドラ息子はお目付け役がいないと思ったのか、さっそくサボってる。
「課長に頼まれてただろうが。お前、言われたことはちゃんとメモ取れよ」
「メモ……」
「社会人の常識だ」
「はぁ」
要は今、確か新規の顧客との打ち合わせが来週辺りに入ってるはずだ。その資料をまとめないといけなかったと思う。もちろん、このドラ息子が頼まれた資料はそんな重要なものではない。簡単な資料作りのはずだ。それを俺らには回さず、自分で作って、こいつにプリントアウトからのまとめをさせてる。
「ほら、こっちだ」
「え?」
「課長に頼まれた資料、普通なら十分で済む。普通なら、な」
「! て、手伝ってくれるんすか?」
頭が痛くなる。俺が語尾を強調したのは「普通なら簡単に済む仕事もお前がやると時間がかかりすぎる」という意味だったのに、こいつは気がつくこともなく嬉しそうに笑っていた。
「はぁ」
「あざっす!」
ほらな、溜め息ついたって気がつきもしない。こんなマイペースで自分のことしか考えてなさそうな奴は要の色気にほいほい落ちるぞ。即押し倒そうとする。そんなのと要をそうしょっちゅう一緒にしておけるかよ。
それにあの人の仕事の邪魔になる。
「原本は?」
「あ、デスクに」
ドラ息子のデスクの上には綺麗な要の文字で、ご丁寧な挨拶と必要人数がわざわざ書いて置いてあった。どうせ忘れて夕方やるか、やってないところを要がフォローするんだろ。
「あ、庄司さーん、花織課長がそろそろ戻るそうです。今、連絡ありました。納期の件、どうなったか後ででいいから報告くれって」
「了解」
要からの連絡をメモ書きにしようとしてた荒井さんが、よかったとその手を止めて言伝してくれた。
もう戻ってくるのか。早いな。打ち合わせって言ってたけど、夕方くらいまでかかるだろうと思ってたのに。時計を見るとまだ三時前だった。
「ほら、行くぞ」
「あ、はぁぁい」
その前にこいつが頼まれてる資料を作っておかないと、だろ。何で俺が、っていうのと、けど要が少しでも楽になるならっていう気持ち、両方がごちゃ混ぜになって苛立ちながらも、足早にコピー室へと向かう。
「こういう資料まとめは一番速度が速くて高性能な二階のコピー機なんすよね? 誰もいなくて静かな」
「……あぁ」
そういう、サボりに繋がりそうなことばっか覚えやがって。その情報だけは得意気に話すドラ息子をチラッとだけ見ると、嬉しそうに笑ってやがる。資料作りの手間が省けてラッキーとか思ってるに違いない。
「こっちだ」
「あ、はい」
「そのままセットでいい。これは両面印刷する資料だ」
「はーい」
あとは設定をしてボタンを押すだけ。留める時が少し面倒だけど、別にそれだってひとりでやれば、要が帰ってくる前に終わらせられる。腕時計を見て、要の到着時刻を確認して。コピーはあと……。
「さっき、話ましたけどぉ……俺」
「これ、頼まれたの午前中だったろ」
留めて冊子にする時間あるか?
「俺も、今の庄司さんのほうが良いと思います」
「どうして、頼まれた直後にやらないんだ」
けど、これ、中身見たら、明日の朝、部長、課長のみの朝会議で使う営業実績資料だ。このあと要が目を通して不備がないか確認するだろうし。最悪一部だけでも、作ってこいつに持たせれば。
「カッコよくて、こういう意外に優しいとこもいいし、あと」
要の手を煩わせずに済むし、こいつと要が一緒にいる時間を削減できるだろ。
「あと、なんか、エロくて、たまらないっつうか」
「……は?」
「めっちゃ、あの……」
「……」
「あの」
ドラ息子が、耳まで真っ赤にしてる。今、こいつ、なんつった?
「あの、すげぇ、好きなんすけど!」
「……」
「庄司さん!」
真っ赤になって、切なげに、今、こいつ。
「はぁぁぁぁぁっ?」
こいつが俺を好きだと、言った。
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