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アンソニーとマリー編 6 愛の力

「山下、製造部長からメールが来てた件なんだが」 「あ、はいっ!」  鬼課長に呼ばれ、バッと立ち上がった山下はいまだに新人っぽい印象で、でも、それがいいんだろう。今年入ってきた本当の新人にかなりなつかれていた。でも、もしも新人が水村だったら、確実に山下は顎で使われてそうだ、と思ったんだけどな。 「ねーねー、庄司さん! 水村坊ちゃん、どうしたんですか?」  昨日はまで超絶マイペースで、どんなに怒られても気にもしなかった水村が。 「あー……」  おかしな病にかかった。 「……そんなわけで、早急にこの前まとめておいた先月度の販売実績を」 「それでしたら! わたしくが! すでにプリントアウト、人数分してありますっ!」  勢い良く挙手で要と山下との会話に割り込んできたのは、あの、水村だった。 「庄司さん……あれ、水村坊ちゃんですよね……」 「あぁ」  髪をワックスでビシッと横分けにまとめ、伊達なんだろう眼鏡をかけて、真面目そうな濃紺リクルートスーツに身を包み、人が変わったように真面目に仕事をしている。言われたコピーは即座に済ませ、頼まれた書類は猛ダッシュで各部署へお届け。戻ってきたかと思えば、すぐに次の仕事を探して、テキパキ動き回る。 「水村坊ちゃんのフリをしたブリキのオモチャ?」 「荒井さん、せめて人にしてやれよ」 「だって」  荒井さんが怪訝な顔で別人になってしまった水村を、パソコンとパソコンの隙間からじっと観察している。 「花織課長! 次は何をしたら宜しいでしょうかっ!」 「……」 「花織課長!」 「知らん。過去の注文書があるから、それの整理を倉庫でやっていろ」 「もうそれは午前中に済ませております!」  鬼課長が眉間にこれでもかと深い皺を刻みながら、水村にあれこれと雑務を次から次に押し付けていた。 「ねーねー、それで花織課長は今、グレてらっしゃるの?」 「……」  けど、案外そつなくこなしてしまう水村がキリリとした表情でまた次の仕事をくれくれと騒ぐから、珍しく要が押され気味だった。 「そしたら、庄司先輩のそばで業務内容見学を」 「ああああああ! それはしなくていい! 次は、ぁ、これ、これの書類を日付順に並べておけ。一枚も間違えるなよ! 絶対に!」 「はっ!」  こっちに歩いてこようとする水村を、要は追いかけるように手をバタつかせ急いで阻止しては、次の仕事を探してキョロキョロ周囲を見渡している。  それがちょっと面白くてさ。  そんなに急な仕事もなく、っていうか、水村が一日中動き回っててくれるおかげで、雑務が全て片付いてて、余裕がある業務環境が出来上がっていた。  なので、普段なら午後、書類だ、メール対応だ、外出打ち合わせだと、忙しいはずの、この時間帯に俺と荒井さんはコーヒー片手に、のんびり仕事ができていた。 「何かあったんですか?」 「んー」  なので、ある意味、水村には感謝してたりする。  あの変わりようだ。そりゃ何があったか知らない人は、突然の大変身に戸惑うだろ。ただ俺と要が恋人同士だとわかって、要の真似をしてるだけなんだけどさ。そんで、要はいらない危機感に煽られて、水村を急に敵視しまくっているだけのことなんだけど。 「もしかして! ふたりが階段で転んで、ごっつんこして、中身が入れ替わっちゃったとか!」 「ぶっ、げほっ」 「あわわわ。すみません」  荒井さんの脳内ファンタジーに噴き出した時だった。 「庄司先輩、どうぞ、これを」 「……」  先週ののんびり水村がハイペース水村に変わって、そして差し出された白いハンカチにびっくりした。 「あ、ありがと」 「いえ! どういたしまして!」 「……けど、コーヒーのシミ、とれねぇから」 「!」  言いながら、デスクの中央に共用として置かれているティッシュの箱に自分で手を伸ばした。 「あとさ、ちなみに、俺、ノンケだよ」 「え?」 「ゲイじゃないんだ。だから、今までの恋愛対象は女の人。あの人が特別なだけ」  そこでこの変身っぷりに合点がいったらしい。横恋慕キャラとなった水村に対して、荒井さんが閃いたって顔をして、のんびりと残りのコーヒーを味わっている。 「けど、お前がテキパキ仕事を片付けてくれたおかげで、すげぇ助かったよ」  ニコッと笑うと、真っ赤になってた。最初、本当に馬鹿ドラ息子だと思ったけど、案外、純朴青年なのかもな。まぁ、外見だけで人を判断しちゃダメっていうのは、この人のおかげで充分学んでるけどさ。 「花織課長、コーヒー飲みます? 買ってきますよ。ついでなので」 「! わ、わわわ、私も行く!」  鬼課長だと思ってた人の中身がトロトロに蕩けるほど甘いのも、こんなパーフェクトな容姿に思えても、本人には深刻なコンプレックスがあるのも、そのコンプレックスがただのパイパンっていうのも、全部がすげぇ可愛くて、好きだけど。 「砂糖多め、ミルクたっぷり?」 「もちろんだ」  猫舌なのも、コーヒーはブラック、ってクールに言いそうなくせに、実はすげぇ甘党なのも、全部ツボだけど。  何より一番あんたの好きなところはさ。 「なぁ、要」 「? なんだ?」 「この前、映画、見ただろ?」 「あぁ、イイ映画だった。今年一番かもしれない」  大袈裟だな。でも、ジンとした、って表情をほころばせて、頬をピンクに染めて、可愛かった。 「あんただったら、どうしてた?」 「ん? 何がだ? あ、あつっ、あつっ」 「気をつけて。ほら、マリーがアンソニーと一緒にいたいっつっただろ? あの時、あんたがアンソニーなら、どうしてた?」  ふーふー、と健気にコーヒーを冷まそうと頑張っていた要が真っ直ぐこっちを見上げた。 「マリーをゾンビにしてた?」 「……」 「それとも、別れてた?」 「いや……」  その眼鏡のレンズが今の湯気で曇って、白眼鏡になってるぞ。顔上げたところで、それって、今、けっこう真剣に訊いてるのに、笑いそうになったっつうの。  どこにも欠点なんてなさそうな、完璧な花織課長はけっこうドジで、けっこう笑える可愛い人のここに捕まえられた。一番がっつり持っていかれたんだ。 「マリーさんのことはとても好きだから一緒にいたい」  噛んで、ゾンビに? 「でも、愛する人に自分と同じようになって欲しくはないから」  それじゃあ、あんたは? 「きっと、ゾンビですが、どうかここに住まわせてください。人のことは襲いません。と頼むだろう」 「……」 「無論、断られるだろうから、死なないんだろ? そしたら、あの避難所の中でたくさん働いて、頑張って頑張って信頼を勝ち得るだけだ。そして、ずっと、マリーのために、永遠にある時間を使おうとするだろう」 「……」 「愛の力はすごいんだ。何せ」  俺は、あんたのこういうところを愛してる。天然で、突拍子もないことをしでかすし、俺の予想範囲なんて軽く飛び越えて来る。でも、あんたならたしかにゾンビのまま人間と結婚くらいしそうだ。すげぇ、納得。 「私が長年抱えていたパイパンコンプレックスを払拭できたんだ。愛に不可能なんてないんだぞ?」  そう言って俺を覗き込んで、得意気に笑って。甘い甘いコーヒーを。 「あっつ! あつっ」 「だから、熱いっつっただろ」 「ひゃけろ、した」 「ったく」  なんで一気飲みなんてしたんだよ。敏感なんだから、あのくらい冷ましただけじゃあんたには熱湯と変わらないだろうが。 「ベロ、舐めて治す?」 「! っ……お、お、おねひゃい、したひ」  そういって、応急処置のキスを待つ鬼の課長の舌は砂糖菓子のように、生クリームたっぷりのケーキのように、甘くて、美味かった。

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