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王道バレンタインSS 1 荒ぶる山下

 駅を歩いているとどこからか、ふわりと甘い、でも、どこかスパイシーな香りがした。 「あー、バレンタインだー」 「え? 荒井、誰かにあげないの?」  あげないといけない人が多いから大変なんですよーって、深い溜め息をついて女子にとっては大変な苦労なんだと語ってる。友チョコもあるし、自分用にだって欲しいし。限定のチョコなんて食べないわけにはいかないし……って、それほぼお前都合じゃんか。 「先輩はチョコとか食べるんすか?」 「いやぁ、私は実は……」  食わなそうだよな。マッチ棒っていうか写真を縦に引き伸ばしたみたいに細長いから、甘いのとか脂っこいのとか全然受け付けなさそう。っつうか、野菜しか食ってなさそう。あ、でも、この前。 「実はすごい甘いの大好きでねぇ」  焼き肉定食大をぺろりと平らげてたな。うん。 「庄司さんは?」 「あ、俺? いらねぇ」 「ですよねー」  荒井がにっこりと笑ってそう言ったあと、私もいらないと思いマースなので、営業課に義理チョコはなしで! と宣言した。俺がいらない、のに、皆にはあげる、ではとても不公平だ。なので、平等にするために、義理チョコ制度を廃止、することにしたいらしい。  まぁいいけど、全然、義理だろうと本命だろうと、他所からもらったって。 「課長はチョコ、どうですか? っていうかどうするんですか?」  今週オープンした定食屋が地味に美味いと同じ営業の奴から聞いて、営業課を二分化してまで皆で繰り出していた。今日は、山下、荒井、それに先輩と俺、のチームで、引率は鬼の花織課長。明日は今日の留守番組が営業リーダーを引率役にして繰り出すことになっている。  そしてその引率役として、生真面目に俺らを引率しようと二歩ほど先を歩き続ける要に荒井が話しを振った。  俺はその答えに耳をすませてしまう。  なぁ、あんたは誰かからチョコとかもらったらどうすんの? 食う? 真面目に? 食いそう。頂き物だからな、とか言って、生真面目にそのチョコ食いそう。食べ物は粗末にしてはいかんとか呟きながら食ってそう。  そんで、その中の一個がさ媚薬入りで。  ――あ、ああっン、やぁん、そこ、らめぇ、イっちゃうの、やらぁっ。  とか、呂律の回らない舌ったらずで喘ぎまくりのイきまくりで。それでも醒めず。  ――またイっちゃうの、らめぇぇ、ぁ、この、ピー、らめぇ、だってこれピピピーでピーでピーがぁ、あんあんあん。  うわぁ、ほぼほぼ言っちゃいけない単語の羅列になってる。エッロ。媚薬飲んだ要エッロ。あんなおねだりして、こんな猥語連呼して、白い肌を火照らせながらパイパン、エッロい無毛地帯で切なげに勃起するあれを扱いて、とか。 「た、高雄、いらないのか? ……チョコレート」 「…………」  振り向いた鬼の課長の瞳に涙が。切なさが滲む潤んだ瞳、不安げに薄っすら開いたピンクの唇、触れてみたくなる頬は悲しさに少し赤らんで、柔らかいキリリとした印象になるはずの眼鏡がただの萌え要素のひとつにしかならなくなるほどの憂いの表情。 「バレンタインのチョコ」  俺がチョコいらないっつったのは、他所からのだっつうの。 「高雄?」  あんた、なぁ……マジで。 「バレンタイン」 「だー! いるに決ってんだろうが!」  っていうか、なんなんだ。その俺の超R18設定の妄想をお誕生日のローソク以上にフッと気軽に消し飛ばすような、何、その、反応。それ、反則。 「僕はいりませーんっ!」  全員、いや、もう今、この駅前の歩道を行き交う人、前後五メートルくらいの一帯が無言になるほどのでかい声と、大昔のドラマの名台詞にしか思えない宣言をした山下に全ての視線が向けられた。 「うぐっ……」  え……何、お前。 「うぐぐ」  俺じゃなくてもドン引くぞ。 「チョコなんてぇぇぇ」  まさかの駅前で号泣とか。しかもサラリーマンの大号泣。それを営業、要引率班の俺らはぽかんとした顔で眺めていた。  バレンタインは山下のトラウマ、らしい。 「びっくりしたぁ」 「いやぁ、一瞬、私たち注目の的になっちゃったねぇ」 「もっと花織課長の萌えフェイスみたかったのにぃ」 「泣くほどのことがあったとは、可哀想にねぇ」  目的地である定食屋の大テーブル。まだオープンしたてだからか少し不慣れな店員が行き交う中、俺と荒井と先輩の三人で座っていた。  ほとんど噛み合ってない会話なのに先輩と荒井が最後の最後、相槌では合致するっつう奇跡。それと、もう二十歳もそこそこに超えて後輩だっているっつうのに、その後輩よりも新人感のある山下の号泣っていう奇跡っつうかアンビリバボー。  今、そのアンビリーバボーは鼻んとこが真っ赤すぎて、午後の外回りに響くからと鬼の課長に連れられてトイレに行っていた。ここの花織班には俺と要のことは知られてるから、まぁ、大丈夫。これが別部署の二十四、五くらいの男だったら、トイレに二人っきりなんて危なっかしくて絶対に無理だけど。絶対に媚薬案件発生だけど。 「高校の頃のって言ってたけ?」 「いやぁ、私は大学の頃のことって話してたと思ったよ」  そこでまた話が噛み合わなくなったけれど、やっぱり頷いたのは同時だった。  そうそう、トラウマ。トラウマなんだそうだ。山下にとってバレンタインは。高校だか、大学だか、俺もその辺はあいまいだけど、その曖昧な青春時代に付き合ってた彼女に、振られた。  その理由が毎回なんでもかんでも定番で飽きたっていうものだった。デートでも会話でも、たぶん、これは予想だけど、セックスでも、とにかく全部が常に定番。それに飽きたと、バレンタインの日、デートの直前に言われた。  ――平凡。  ただそう一言捨てるように言われて終わったのが、きつかった。一緒にいてつまらない、退屈。そう言われただけでなく、その最後に飽きたと言われたら、けっこう傷つよな。まぁトラウマにだって。 「いやぁ、すんませんでしたー!」 「えー、山下さん、立ち直り早い!」  ならなかったのかよ。はえーな。復活。 「うん、早いねぇ。もうあと五分は泣き続けるかと思ったのに」 「そんなことないっすよー! 僕! 過去のことは気にしない主義なんです!」 「「えー?」」  あっそ。そうだろうな。こいつと外回りけっこう最初の頃一緒にしてたけど、そんなトラウマ一度も聞いたことねぇし。っていうか、要は? あいつ一緒にトイレいったよな。  今度は感嘆の声のタイミングがそっくり一緒だった先輩と荒井の会話を聞いていた俺は、要を迎えに行こうと席を立ち上がった。 「あ! 課長! こっちです」  荒井が手を上げて。 「……あ、あぁ」  それに要が返事をする。一瞬だけ、ホント、一秒もない時間、俺には要が表情を曇らせたように見えた。

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