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初旅行篇 1 ツボ押しのタイミング

『ぁ……高雄っ、まだ、明るいうちから、こんな外で……なんて』  湯にのぼせたのとは違う頬の赤み、潤んだ瞳は戸惑いながら物欲しげに俺を見つめ、瑞々しい唇は何かを堪えるように熱を噛み締める。 『あ、ダメっ、高雄っあぁぁぁぁっ……ン』  まだ日も高いうちから、部屋にある個別の露天風呂に響く甘く妖しい蜜音――。  っていうところでツボをごり押しされると思うだろうが。 「あ、高雄! すごいぞ! 滝! こんななんだなぁ。おお……高い……」  さっきから当たり前のことしか呟いてない要を見ながら、今朝食らった、強烈なツボごり押し攻撃を思い出してた。  下の毛が薄いことを極端に気にしてるから、ここは大人として、社会人として、金額関係なし、五月の連休で、一年でも一番高いシーズンだろうとかも関係なしで予約した超高級旅館。  普通なら、部屋付きの露天、誰にも見えない、でも屋外の風呂場。柵の向こうに音だけは筒抜け。そんな場所で恥ずかしそうにするあんたを見て、悶える自分を予想するだろう。それなのに、あんた相手に普通は通用しなかった。  今朝、ふと思って訊いたんだ。  荷物多すぎやしないか? って。  一緒に住むようになって数ヶ月。この連休をしっかり確保するために、休日出勤なんて悲劇を招かないためにお互いに仕事を必死に片付けて、さぁ、旅行だ、と思った今朝。たかが一泊するだけなのにどう見たって一週間くらいはどこかに滞在できそうなサイズのスーツケースを持ってたから。  普通、一泊する程度なら多くたって小さな鞄ひとつで事足りるだろ? 出張の時だってそうなんだし。それなのに、あんたは――。 『初めて、家族以外と旅行に行くから、何を持って行くのかわからなくて……』  なんて、頬を赤く染め、困ったように瞳を潤ませて、柔らかく甘い唇で呟くから、その場で悶え転がるところだった。 「高雄! すごいぞ! 滝に手が届きそうだぞ」 「危ないぞ。要」  すげぇ楽しそう。こんなにはしゃぐとは思わなかった。荒井さんたちが見たら、絶対にまたワーキャー騒いで萌えだなんだって叫ぶぞ。 「すごいなぁ。滝って」  ただ水が高いところから流れ落ちてるさまを見ているだけでこんなに目を輝かせて頬を赤らめる、鬼の花織課長なんて。  泊まりの出張なら何度もしたけれど、仕事なのだから、シャツ類、下着の替えがあれば大丈夫。それよりも重要なのは書類、資料、等々、仕事に関するものを忘れず揃えることだ。仕事での出張の時なら迷うことなく荷物の用意ができる。  けれど、今回は仕事がない。だから、何を用意したらいいのかわからない。  それなら、修学旅行はどうしてたんだ? 同級生と学校の行事で泊まりがけの旅行くらい行ったことがあるだろ? そう訊いて、必殺パンチを食らった。 『パ、パイパンのこと、知られなくないから、行事はズル休みしてたんだ。だから、誰かと旅行なんて、高雄が初めてだ』  なぁ、そんなことを俺が露天であんたを抱く時に妄想した表情よりも艶三割増しの、可愛さ五割増しくらいで呟かれたら、その場で瀕死の重体になるだろ。 「こんなだとは思わなかった。しかも、とても気持ちいい」  パイパンって、恥ずかしそうに呟いて、きゅっと、唇まで噛み締めたりしやがって。マジで、今朝、あのまま押し倒して、新幹線乗り過ごしてやろうかと思ったぞ。  あんたの「パイパン」発言だけでも威力充分なのに、家族以外の旅行が初めてだとか、その相手が俺だとか、ホント。  大袈裟なくらいの大荷物だった。  そんなにいらないからって、スーツケースを開けてみたら、洋服を三セットも入れてたし、タオルケットなんて持ってたし、それにスマホの携帯バッテリーをふたつも。  洋服はもしかしたら必要かもしれないから。タオルケットは新幹線の中でかけるかもしれないから。バッテリーは――って、いらないっつうの。  なんで、出張の用意はばっちりできるくせに、それがプライベート旅行に変わった瞬間、不器用になるんだよ。  しかも極めつけは「トランプ」と「ウノ」持参。  これいらないだろ? って、取り出しやすいポケットに入れてあったふたつを手に取ると、頬を赤くした要が目を伏せる。 『ふたりっきりだから、高雄が退屈してしまうかもしれないだろう? だから、カードゲームするかなと思ったんだ。枕投げはさすがに大人になったらしないだろうしな』  高校生のガキでも全員がやるわけじゃねぇよ。要の中では修学旅行で皆がしていることのかなり上位にそれがランクインしてそうだけど。  トランプもウノもいらない。たぶん、してる暇がない。 「退屈、しないな」  今朝の自分にでも語りかけるように、要が嬉しそうに呟いた。  退屈するわけがない。一緒に暮らしていてその二文字に一切触れることがない。退屈どころか、その逆に忙しいくらいだ。 「……旅行、楽しいな」  よかったな。楽しくて。俺は楽しそうに、嬉しそうに笑うあんたを見ては、我慢を強いられるから大変だけどな。 「要、ジュース飲む? 買ってくる。さすがにコンポタはねぇかもだけど。何がいい?」 「さすがにコーンポタージュをここで飲もうとは思わないっ!」  怒った顔も、滝に感動して目を輝かせるとこも、全部、今日は朝からずっとツボ連打されてる。ずっと、忙しい。 「り、林檎ジュースを……」 「っぷ、りょーかい」  マジで可愛すぎだろ。俺の上司はさ。  露天に行く前からすでにこんなんじゃ、夜まで我慢できないっつうの。滝見て、あとでバスで駅まで降りて、それで寺回って、有名な庭園でこの連休だけ特別にやってるらしいお茶会に参加して。旅館のチェックイン五時だったよな。五時までおあずけかよ。一回、部屋入って、荷物を置いてから、夕飯は要が行きたいと言っていた湯葉で有名な割烹を予約してある。  周辺のレストラン、全部頭に入ってるんじゃと思うくらい、要は毎日、ガイドブックを眺めて勉強していたあそこに行きたい、ここに行きたい、そう言っているのが楽しそうで、見ているこっちはずっと顔が緩みっぱなしだった。  要もはしゃいでるけど、俺も相当はしゃいでるな。つい、にやけそうになるから、意識して平常心を心がけないと、これじゃヤバイ変質者だ。  ガタン!  勢いよく、リクエストの林檎ジュースが自販機の取り出し口へと転がり落ちてきた。本当にお子様みたいなものが好きなくせに。 『高雄っ……ン、もっと』  あんなにエロいとか、どうなんだよ。それに、甘いものが好物な要が一番。 「あれ? もしかして、高、雄?」  一番甘いなんて。 「高雄? だ、よね?」  まさかここでこんなドラマみたいな展開あると思うか? 日本にどんだけ観光地があると思ってんた。数え切れないほど山のようにある名所の中で、同じ場所に同じタイミングで訪れて、滝がよく見えるあっちじゃなくて、人があまりいない、端の自販機前でばったり遭遇するなんてこと。 「……さやか」  ありえると思うか?  ここで、去年別れた彼女に遭遇するなんてこと。

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