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初旅行篇 9 花織さんのナイスなセンス

 どうにか朝食は旅行らしく堪能できた。さすがにそこもコンビニじゃ、あれだろ。  豪勢な朝食を食べながら、チェックアウトしてすぐ帰るんじゃ味気ないから、少し歩いたところの寺めぐりでもしようって話してた。  花織課長の優秀な頭の中にはこの辺一帯の店と観光スポットがびっしり詰め込まれている。行きたい場所を言えば、カーナビみたいに道案内だってできるかもしれないほど。  浴衣姿に、今朝の名残を漂わせながら、旅行後半、というかおまけ程度にしかならない数時間のプランを楽しそうに考えていた。俺はその頭から少しだけ乱れて飛び出てる寝癖、とまではいかないかもしれない、跳ねた髪を眺めながら、要の低音が心地良い甘い声を聴いていた。 「すみません。このアンケート、こちらで平気ですか?」  要の外用スイッチ「花織課長」がオンになっている。上品な笑顔、品のある話し方、それと洗練された身のこなし。  アンケート? あぁ、今朝、朝食を配膳してくれたスタッフがテーブルの上に置いていったっけ。もし宜しければ……と、渡されたアンケート用紙。この旅館のサービスなどに関しての簡単な質問に答えるだけ。ただ数字に丸をすればいい、それを俺は面倒だからそのままにしていたけれど。  要は律儀に全て答えて、最後のコメントまで書いていた。綺麗な字。要そのものを表すような達筆な字で、素敵な旅行になったと綴られている。 「ご丁寧にありがとうございます。今後のサービス向上の参考にさせていただきます」  フロントスタッフが頭をさげる。そして、宿泊料の明細を封筒に入れてカウンターから手渡してくれた。 「あ、あの、ひとつ、お願いしてもいいですか?」 「え、はい」  接客の上手なスタッフですら、一瞬、戸惑うほど、急に要の様子が変わる。さっきまでとは別人みたいに「えっと……」なんて、何かを言うのを躊躇っていた。  そりゃ、戸惑うだろうな。急に「花織課長」のスイッチをオフにしたんだから。 「あの、写真をお願いしても」  耳まで真っ赤にしながら、そう一生懸命に頼む要に、スタッフはふわりと優しく笑って、「かしこまりました」と手を差し出した。 「では、いきまーす!」  高級旅館、フロントのカウンター越しに会話をした時とは少し違う、張りのある声でスタッフがカメラを構える。深緑が綺麗な木々とその足元を流れる上流の川を背にして、俺と要が並んでいた。 「あ、あの、高雄、えっと……」 「……」  せっかくふたりで背景込みの写真が撮れるのに、俯いてモジモジしてたら、台無しだ。「花織課長」でいる時はどこまでも洗練されていて、よどみひとつない上質な男にしか見えないくせに。 「要、離れすぎ。こっち」 「うわっ!」 「はい! そのまま! 撮ります!」  スタッフはずっとカメラをかまえたまま、シャッターを押さなかった。どう見たって恋人にしか見えないだろう距離にまで、俺が要を引き寄せるまで、ずっと待っていた。 「あ、あり、ありがとうございます」 「いえ。一応、二枚撮りましたが、ブレてないかどうか、ご確認ください」 「ぁ、はい」  この人は本当に真面目だから。スタッフに言われたとおり、その場で写真が撮れてるかどうか確認して。 「大丈夫です。ありがとうございます」  写真を見て、輝く笑顔でそう言った。 「とても素敵な宿でした。お世話になりました」 「こちらこそ、またのご利用を心よりお待ちしております」  見送られながら、本当に嬉しそうに笑っていた。 「さて、お寺は、あっちの道だ。庭がとても綺麗なんだそうだ。今の時期だと紅葉の新緑がいいんじゃないか? 少し坂になってるから歩くのきつかもしれない。あ、そうだ、このお寺から歩いて三十分くらいのところにあるレストランのビーフシチューが絶品だってあったが、高雄は食べたいか? ビーフシチュー。あぁ、でも湯葉もいいなぁ。でも、あそこはランチはしてないから、他の湯葉料理。でも、ビーフシチューも」 「……なぁ、要」 「んー?」 「楽しかったか?」  さっきのアンケートにはそう書いてあったけど、湯葉食べてないし、他にもたくさん要が行きたいところはあっただろ。それはまた来ればいいと笑うかもしれない。でも、俺の元カノに遭遇したのは、要にとってひとつも楽しいことはなかったはずだ。 「あぁ、楽しかった」  でも、要は即答した。にこっと笑って、俺の前だから、「花織課長」のスイッチは電源から引っこ抜いたまま、コンセントはほったらかしだ。 「とっても楽しかった」 「……」 「嬉しかった」 「……え?」  昨日は最悪だったと言われるかと思ったのに。 「その、洗面所で訊いただろう? だから、勇気を出してさっき頼んでみたんだ。写真」  要のルート案内どおりに、少しきつい坂が続く。 「スタッフが怪訝な顔をするかと思ったけれど、しなかったのも嬉しかった」 「……」 「写真、ぴったりくっついて撮れたのも嬉しかった。あ! そうだ! どこかで写真立て売ってないか? さっき撮った写真を飾ろう!」  要がいいことを思いついたと、表情を一層輝かせる。 「全部、嬉しくて楽しくて、仕方がない。でも」 「でも?」  きつい坂道は一歩ずつ踏みしめるようにして進んでいく感じ。 「でも、他の誰かと来てもきっとこんなに楽しくはならない」 「……」 「高雄といると、何もかもが楽しいんだ」  はにかんだこの人が頬を綺麗な桜色に染めて、そして、手を差し伸べる。五月の爽やかな日差しは生き生きと茂る木々の葉でところどころが翳って、白い肌に光の模様が描かれてる。 「大丈夫か?」  首を傾げて尋ねるあんたこそ、大丈夫かよ。あんなに昨日、散々俺に抱かれて、しんどくねぇの? しんどかったら、言って。そしたら、すぐに抱き上げて、あんたのことを行きたい場所全部、担いで連れて行くから。 「あんたは?」  細くて華奢で、白く、繊細で敏感な人。 「俺か? 俺はとっても元気だ。ほら、お前のこと引っ張ってやろう」 「……」  でも、男だから、俺の隣で誰よりもしっかりと立って歩いてる。たどたどしいし、目が離せないけれど、誰よりも凛とした美しい男のあんただから、俺は、その隣を独占したいんだ。あんただから、俺はきっとこんなにこの隣にいたいと切に願う。 「要」 「ほら、手、って、うわぁぁ」 「あんたはここ」  この人の隣にずっといたいと――。 「隣にいてよ」  そう囁いたら、深緑に溢れる世界に一輪の花が咲いたみたいに、要が真っ赤になっていた。 「なぁ、これ、絶妙に、ダサくねぇ?」 「そうか? 素敵じゃないか」  にっこりと笑って要が大事な宝物のようにそっと手に取った写真立て。なんでハワイアン? なのに、なんで脇でゴリラがポーズ取ってんだ? っていうか、これ、ゴリラ、だよな。もしかして、熊? 違うのか? 「ふふ……」  でも、要は連休中の土産屋で買ったその写真立てを大切そうに持ち上げて、そして、そのゴリラらしき生物が覗き込んでいる横で笑う俺たちの写真を愛しげに眺めていた。

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