111 / 140
課長初めての◯◯編 1 開けてはならない、その扉
いつもキリリとクール、清潔感があって、営業課歴代の課長の誰よりも若く、けれども誰よりも成績を数字という明瞭な形で出している、あの花織課長。
今日は猛暑日になるでしょうって言ってなかったっけ?
まだ七月の半ばだというのに、もうすでに暑さは尋常ではなく。外出する機会の多い営業にとってはしんどい日々が続いて――。
「あ! 花織課長! お疲れ様っす」
「ただいま」
外での打ち合わせから戻ってきた要に山下がぴょこんと立ち上がりお辞儀をした。荒井がその山下の声にスッと席を外し、お茶を出そうとして。
「あぁ、いいよ。ありがとう。お茶は大丈夫だ」
そう、口元をほんのわずかに綻ばせた要に言われ、それではと会釈をして着席。いつもどおり、いつもの鬼の花織課長だ。
鞄を置いて、スーツジャケットの内ポケットに忍ばせている銀のケースを取り出す。眼鏡拭き専用のケース。そして、眼鏡を外し、普段はその眼鏡である程度は誤魔化すことのできる、美麗な目元を伏し目がちにして、わずかな埃も許さない真っ白な布で拭う。
そして、また眼鏡をかけて、ジャケットを脱いで、専用のハンガーへとかけた。
少し疲れたのか、小さく、他の誰も気が付かないほど小さくそこで一呼吸を置いて、席へ。
猛暑だっつうの。
外はまさかの三十度越えの地域もあるレベルだっつうの。けれども、要は涼しげな顔。
「おかえりなさいっすぅ」
「あぁ、山下、どうかしたか?」
「あの来週、納涼会するじゃないっすか」
「あ、あぁ、山下が幹事だったな」
「はい! それで! 課長にもご参加いただきたく」
まるで、卒業証書でも受け取るような格好で、ずいっと、山下が要のデスクに一枚の紙を差し出した。
「いや、私も参加させてもらうつもりなんだが。いつものビアガーデンだろう?」
「ぁ、違うんです! こっちは! カラオケ大会のです!」
「へぇ」
? 要の表情が少しだけ。
「はい! カラオケ、大会つってもー、カラオケで採点して、一位の人には商品をーっていう」
「ほぅ」
「そうなんすよぅ。二課と対決なんす!」
「ほほぅ」
あんたはどこの悪代官だよって相槌をして要がその用紙を受け取ると。
「点数が出るじゃないっすか。その合計得点で勝敗をーっつって、盛り上がってるんす! 目指すは、一次会を食っちまおうぜ二次会で!」
なんだそれ。どんな二次会なんだよ。
「なんすよ」
にっこりと、まるでリスが首を傾げ、どんぐりでも頬張るように天真爛漫に山下がそういって参加メンバーの用紙を要に差し出した。
「頑張りましょうね! 課長! 課長がいれば百人力っすよ。課長の美声でもう勝ちは一課のもんすっ!」
リスが元気に鬼の花織課長の前で小踊りしながらガッツポーズをしてみせた。
なんか、あるんだろうなぁとは思ったんだ。
(たかお)
あるんだろうなぁとは思ったんだけど。面白すぎるだろ。
(たーかーお)
なぁ、後でにすれば? 今じゃないとダメなわけ? うちに帰ってからにすればいいだろ? 仕事中だから。笑うの堪えるってけっこうしんどいんだけど?
あの鬼の花織課長が周囲に見つからないようノーパソと社内品質基準ファイルの隙間から手を合わせてる。たぶん、あれは「頼む」って意味。
それから、その手をひらりとさせて「なんでやなん」じゃなくて、たぶん、「外へ来てくれ」ってこと。今度は飲む仕草。「休憩所のところだ」かな。そんでもう一回掌を合わせて「頼む」だって。
知ってる? 要さ、周りにどう言われてるのか。
――花織課長っていつも涼しげな顔してて、汗一つかかないよねー。毛穴なさそうだもんねぇ。暑くても眉一つ動かさない感じ。
そう言われてるんだぜ?
なんてことは知らないんだろう要がいそいそと職場を抜け出した。もちろん、涼しげな顔をして。俺はその後をしばらくしてから追いかける。
「なぁ、山下、ちょっと経理行って来るから」
なぁんて言ってみたりして。山下は「ういっす」って返事をしながら、顔はパソコン画面と睨めっこをしていた。
「どうかした? 要」
「たー、たたたたた」
何それ。俺、突付かれんの?
休憩所の自販機の脇、白いシャツがチラリと見えてる。壁との僅かな隙間に埋もれるように隠れていた要が、俺の声に、その奥に設置されている消火器と同じくらいに真っ赤な顔で飛び出した。
「高雄!」
「あぁ」
何? そんな緊急事態?
「頼む、高雄!」
「何」
なんで半泣き? なんで、そんな汗かいてんの? ここけっこう冷房効いてるけど? 外から帰って来た時は汗ひとつもかいてなかったよな?
「助けてくれ!」
「何から?」
あぁ、もちろん要のことは何からでも助けてやる。それがマフィアでも、悪の組織だろうと、モンスターからでも幽霊からでも、もちろん、助けるさ。
「私は!」
「あぁ」
何からでも、どんな時だろうと、どこからでも駆けつけて、守ってみせるさ。
「音痴なんだ! どうしたらいい?」
「は?」
「カラオケ対決!」
あぁ、なるほど、つまり、音痴だから二次会を断りたいわけね? やんわりとどうにかこうにかして鬼の花織課長の面子を潰すことなく温和に二次会辞退を申し出ればいいってことだろ? そんなの簡単だ。
「それなら」
けど、俺は少しだけ油断してたんだ。
ほんのすこーしだけ、油断してた。
「違うんだ! 一課と二課の対決だぞ! 私だって頑張りたい!」
この人が俺の斜め上を突き抜けてくっていうことをさ。
「だからお願いだ!」
「?」
「私の音痴を調教矯正してくれっ!」
ホント、油断してた。
「私の音痴をっ、調教してくれ!」
一瞬さ。
「高雄おおおおお!」
一瞬、今、開いちゃいけない扉、開きそうになった。マジで一瞬。慌てて閉めたけど。やっべーっつって、いっそいで閉めたけど、なんか隙間から見えそうだった。この汗ひとつかかないって言われてる、毛穴はどこいったって感じのツルスベ肌に走る赤い――イヤイヤ、マジで、ホント、俺の斜め上すぎのとこ突き抜けんの、勘弁してくれ。
ともだちにシェアしよう!