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課長初めての◯◯編 3 秘密の個人レッスン
優秀な課長のおかげで我が営業一課の仕事処理は驚異的に早い。営業? 残業必須の部署でしょ? だって、顧客対応に日中は時間取られまくってるんだから、いくらアシスタントがいるからって、そうそうアフターファイブを満喫なんてことは無理無理。そう俺も思ってたし、実際、要が課長として一課にやってくるまではそうだった。定時上がりなんて夢のまた夢。
その営業一課の業務管理、時間管理、そして改善と革新的なことをやってのけた優秀鬼課長がスマホを片手で持ち、まるで俳句を一句書いているかのような正しい姿勢でずっと画面とにらめっこをしていた。
「おー」
何その、超絶綺麗な姿勢。そんな正しい姿勢でスマホ扱う人ってそういないけど。
「おおお! なんだかたくさんあるぞ! 音痴改善のやり方!」
正座だし。
「まず! お風呂で歌う! あとでやってみよう!」
目輝いちゃってるし。
「ほお、真上を見ながら歌ってから、普通に歌うといいのか……ふむふむ」
素直に上見て国民的アニメの主題歌うたってるし。アンアン元気に歌ってるし。しかも一瞬、出だしだけ、音が合ってた、けど、すぐに戻ったな。
「顎が小さい人は発声が大きくできないのか……顎、小さいのか?」
自分の顎をぺたぺた手で触ってから、その手をじっと見つめて……。
「小さいか? 俺の顎」
その手で測った形をそのまま……。
「どうだ?」
俺の顎へ。
そういう測り方って子どもがするよな。このくらいって手で長さとか大きさを測ったポーズのまま、腕をフリーズさせて、次の測りたい物に当てる。大概、ちゃんとなんて図れてないけど。でも子どもはやる。
それと要も、その測量方法をやる。
「でも、要、顔小さいじゃん」
「そうか?」
そして、真面目に答える俺。
「高雄は……」
「?」
「カッコいいな」
そして、そして、ニコッと微笑まれて咄嗟にキスするただのバカップル。唇を合わせて、少しだけその柔らかさを確かめようと啄ばむと、要の淡いピンク色から甘い甘い声が零れる。
「ふふふ、キスを……してる場合じゃないじゃないか! えっと、次は」
でも仕方ないだろ? 可愛いんだから。
だって、相手はあの鬼課長だぞ? つい数時間前まで、残業一時間以内で切り上げるために、尋常じゃないスピードで事務処理を終えて、せっつくように製造部との打ち合わせをし終えた優秀課長。それがキス一つに表情を柔らかくするなんて、恋人としてはたまらない幸福感だ。
「さて! 次は……おお、バケツを頭にかぶって歌うのもいいんだそうだ! バケツが……ないな」
バケツ、マジで被りそう。
「それから……ぁ! これはすぐにできる! 毎日やると効果アップなんだそうだ!」
「へぇ」
「ちょっと待っててくれ!」
「?」
手を目の前でパッと広げて「待て」のポーズをしたかと思ったら、そのまま急いでキッチンへ。戻ってきた要の手にはストローがあった。ほら、もうあんま見かけないけど、あるじゃん。ストローが湾曲しててたまにハートの形をしてたり、色々あるトロピカルフルーツジュースとかについてそうな、ちょっとはしゃいだストロー。
「せーの、ふうううううっ」
それを咥えたかと思ったら、頬を丸く膨らませてシュノーケルのように息を吸って吐いてを繰り返す。
「ふううううう」
吐いて。
「すううううう」
吸って。
「ふううううう」
吐いて。
「すぅ、ふううううう」
「いや、要、ごっちゃになってる」
「ぷへ?」
ド天然か。
「あ、案外、難しいな」
それからストローが楽しげすぎるだろ。
「あれじゃん? 風船、膨らませるとかでも。複式呼吸にするってことだろ?」
「おお!」
それなら百均でストローも風船も売ってるから、どっちも買えばいいだろ。
「そうしよう! 毎日特訓だな!」
頑張りたいって色付く頬が教えてくれる。皆で何かをやるのがワクワクして楽しくてたまらないんだってその弾んだ声が教えてくれる。
「あぁ、まずは風呂で歌練」
そういうことにこんな表情をする要に自然とこっちも表情が緩む。それと、尊敬もしている。あの日、誰もいないと思った会社でエロ動画を見て、どうにかこうにか自分のコンプレックスを治せないかと頑張っていたこの人をすごく。
「よおおし! 歌うぞー!」
愛しいと思ったんだ。
それから毎日風船を使った複式呼吸の練習と風呂での歌練習は続いてる。すこーし、よくなったかな。あの人真面目だから。一生懸命頑張ってるよ。
「ふぅ……」
今日は一日外回りだった。地方へ出向いての最終打ち合わせ。だから、要とは朝「いってきます」ってしたっきりだ。もう帰ってるだろ。
「ただいまぁ」
疲れた。けど、これでまたでかい仕事は取れたし。あー、けど仕事の話は仕事の時でいいだろ。うちに帰ってからはもう俺らは恋人。
「あー、あ、あ、あ、あなたにいいいー」
玄関を開けると要の歌ってる声が聞こえてきた。その歌声に少しの違和感を耳で感じつつ。「ただいま」の声に全く反応しない要に、ほんのわずかな疑念を抱きつつ。
「…………」
リビングで、要の秘密のレッスンを見た。
「会いたいいいいい、い、い」
俺も会いたかった。一日すげぇ頑張ったしさ。おかえりのキスをして欲しかったんだけど。
「ああああ、会いたいいいいい」
無理そうだし。しばらく見てようかなって。正座をして、正しい姿勢でこの秘密のレッスンを頑張っている斜め上を突き進む俺の恋人を。
「会いたいいいいいい、貴方にいいい」
バケツを頭から被って、正座で、正しい姿勢で歌っている、鬼の花織課長の姿を。
堪能すること数分。
ただいま、要。そう告げた瞬間、急に聞こえた愛しの恋人の声にうろたえるも、バケツを被ってるせいでよくわからなくなって慌てふためく要の姿を。
「ええええ、え、え、どこ! 高雄っ! な、な、見たのか!」
いや、今も見られてるから。
「ぎゃああああ、声があああ」
その愛らしい姿に一日に疲れは一瞬で吹き飛んだ。
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