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第2話 花織課長は三度告げる。

「庄司高雄、ちょっと、こっちに来い」  花織課長がまっすぐこっちを見て、じゃなくて睨みつけながら手招いている。あー、自分の名前をフルネームで呼ばれようが、ばっちり目が合ったことも気がつかないフリをして、スルーしてぇ。  周囲の奴らは鬼に手招かれた俺を哀れんだ目で見送ってくれていた。  新卒でこの会社に入って四年目、今現在、は、彼女ナシ。でも、さりげない茶髪は適度に流行を取り入れつつ、営業職に支障がないように気をつけている。顔はまぁ、奥二重で少し大きな口元がセクシーだと女子からは高評価、というこの見てくれと愛想の良いフリだけは上手いから、それなりにずっと安定してモテていた。学生の頃から数えて彼女は四人。派手すぎず、地味すぎず、流行を適度に取り入れつつ、可愛さ重視のまぁイイ感じの歴代彼女。そして、入社後、三年以内に離職する確率は約三十パーセントといわれていた壁を超えたにも関わらず、ここでもしかしての―― 「……はい」  あれ、睨んでるよな。眉間にものすごい皺を刻んだ花織課長が手招いてるのって、俺、だよな?  庄司高雄、俺のポリシーはなんでも適当が一番、面倒は大嫌い――元課長のもとではけっこう温和で良好な人間関係を築いてきた。けど、それもここまでか。  非常階段のある扉の手前、少しだけ死角になっている場所まで無言のまま歩いていく花織課長の背中を眺め、あの元課長のほうが適当できて楽だったなぁ、なんて思ってみたり。っていうか、エロ動画見てたのそっちだろ、って文句をぶつけてみたくなったり。表向きの俺は温和で頼みごとをしやすい庄司さん、だからキャラ的に違ってくるけど。でも、俺は悪くねぇだろ。あ、なんか、そう思ったらムカついてきた。キャラ変わるけど、これで何か威圧的なこととか言われたら言い返したいなぁって、素の自分が顔を出しかける。我慢できっかな。 「庄司」  振り返った花織課長の鋭い視線に身構えそうになった。 「お前、さっきの」  でも向けられたのは鋭さなんてこれっぽっちもない視線。 「言わずにいてくれたんだな」  低く威圧感のある声を予想していた耳に飛び込んできた、威圧感皆無の柔らかな声。それが他の誰からも見えない廊下に響く。 「はい?」 「さ、さ、さっきのだっ!」  顔が真っ赤だった。耳まで真っ赤にして、目なんて、さっき山口を睨みつけたのと同じ瞳だなんてわからないくらい、潤んで切なげに俺を見つめている。 「え? あ、さっきのこと、ですか?」 「そうだ! 他にないだろうがっ!」  まさにギャン! と叫んだ声がこの死角よりももっと向こうまで一瞬だけ響き渡る。そして、それにも驚いて、困ったように、眉を、あのつり上がったままが固定位置だと思われた眉を八の字に下げた。  もしかして、今、目の前にいるのは本当は別人なんじゃねぇ? と思えるほど、さっきデスクのところにいた課長とはまるで違う。山口に見積もりの再提出を突きつけて、納期回答が全然できていないとわざとだろ? ってくらいにでかい溜め息を吐いてみせる、嫌味で高圧的な花織課長はどこにもいない。 「さっき、お前が昼休み、その、あ、えっと、外回りに行ってきますって部屋を出ただろう? あれでもう皆に言いふらしているに違いないと思った。そして、そんなことを噂というか事実として流されたら、もうこの職場ではやっていけないと辞表を提出しようと思ったんだ」  思い詰めすぎだろ。言いふらす、あんまそこまで考えてなかった。誰にだってひとつやふたつ隠し事くらいあるだろうし。別に強面の有能課長がスケベでしたってだけのこと。それをわざわざ人集めて? 言いふらす? めんどくさ。 「あの花織課長が誰もいない昼休みに」  あんたはスケベですね、それでお仕舞いだろ。俺は別に興味ない。 「ぎゃああああ! いうな! バカ者!」  や、ぶっちゃけバカなのはあんたのほうだと思うんだけど? でも、そんなことを口にできるわけがない。俺は表向き、優しくて温厚な庄司君。カレーでいうなら子どもも好きな甘口。そういうふうに装っておいて、ニコニコ笑って楽をしてきた。にっこり笑って請求書お願いってすれば、どのアシスタントもやっといてくれる。愛想、愛嬌って大事だよな。  でも、今、そのニッコリ対応もできそうにないほど、この口を課長の白い手で密閉状態に塞がれている。笑うどころか、一言も話せそうにない。  っていうか、本当にあんた、あの花織課長かよ。  潤んだ瞳は頼りなげに俺を見つめ、柔らかそうな頬も耳たぶも真っ赤に染まっている。近くに来ると同じ男だとは思えないくらいみずみずしい素肌は若干星が散りばめられてると感じるほど輝いている。 「言いふらしてないですよ。花織課長が」  なぁ、あんた、本物? 何、その突付いてみたい衝動に駆り立てる愛玩動物みたいな感じ。 「ぎゃああああ! 違う! そういうんじゃない! 俺はっ! ただっ! 調べ物をしてただけなんだ!」  いやぁ……それはねぇ。その言い訳はとりあえず、ない。  人生でこんなに「きょとん」って言葉が似合う心境になったのは初めてだった。いや、それは苦しすぎる言い訳だろ。小学生じゃあるまいし。何? 今更、セックスの仕方がわからないので、エロ動画で勉強してました、とか? それはさすがにねえだろ。あったとしても、課長のイメージ総崩れだっつうの。 「知りたくて……つい」  まさか、本当にセックスの仕方を? 「ぱ、ぱ……ぱ」  ぱ? ぱ、から思い浮かぶ調べたくなるようなエロ動画ってなんだろうと考えながら、花織課長の口から出てくる次の言葉を待ってみる。すげぇ真っ赤で、果実みたいに見えた。デスクで仕事をしている時は元課長が子どもに思えるほど、厳しいスパルタ課長としてテキパキ、誰もが絶句するほどの量の仕事をこなすのに、今、その面影は皆無。 「ぱ、ぱぱ」 「ぱ?」  俺の歴代彼女たちと見比べてみても、透けるように綺麗な白い肌はちょっと照れただけでも真っ赤になるのかもしれない。綺麗な綺麗なピンク色は貝殻みたいな不思議な色。そして、その肌によく似合う、同じく綺麗なピンク色をした唇。 「ぱいぱん」  その唇が告げる、ぱ、の付く言葉に絶句した。 「は?」 「ぱい、ぱん」  今、二度、確かにこの人、ぱいぱんって言わなかったか? 言ったよな? あ? 言ってねぇ? 俺の空耳? 「私は、毛が薄くて、そのことがすごく、コンプレックスなんだが、さっき見ていた動画で、毛、を、剃ると濃くなってたくさん生えるとあったんだ。だから、本当なのかと、わたしのこの悩みが消えるのかと、つい、どうしても知りたくて、ボタンを押してしまったんだ。そしたら」  やっぱり空耳だろ。あの、スパルタ課長、花織要がそんなエロ猥語を言うわけがねぇ。 「そしたら、イヤホンがちゃんとはまっていなくて、声が漏れてしまったんだ。別に卑猥画像がみたかったわけではない。ただ」  苦しそうに伏せられる潤んだ瞳、みずみずしい桃のような色をした頬、そして、柔らかく甘いお菓子のようにも見えるピンク色の唇。 「ただ、ぱいぱんが治るのかどうか見たかっただけなんだ」  その唇が今度こそ、空耳だと言われてしまわないようにと、たしかに、しっかりと「ぱいぱん」と言う言葉を言い放つ。三度、その唇がエロ猥語を呟いていた。

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