3 / 140
第3話 避難訓練は真剣に
――いいか? 絶対にこのことを他の人間に話さないように。言っておくが、こういうことはプライベートでデリケートなことだ。もちろん、私は誰にも打ち明けたことがない。わかるな? もし、私の悩みをお前以外の誰かが知っていたら、それはお前が話したことになる。誰かに話してみろ、絶対に、お前を。
「左遷、ねぇ……はぁ」
溜め息と一緒に本当の俺のぼやきがぽろりと休憩所に零れた。花織課長の意外すぎる一面に頭の中はもう真っ白。仕事をするにも集中できなくて、休憩所に一時避難しようと思った。
もしかしたら今週の俺の運勢って最悪なのかもな。花織課長の秘密を偶然にも知った俺は目を付けられただけでなく、まさか自販機で金だけ持ってかれるとか。
ここの自販は古くて、たまにへそを曲げる。金を入れてもジュースが出ないことがあった。でも、大概は、ここ、この中央からほんの少し下、右側を強く叩くとジュースを吐き出す。ところが、今日はいくらそこを叩いてもジュースを出そうとしない。
「っんだよ」
文句は自販機になのか、小さなことを気にする花織課長へなのか。
そんなに気にすることか? 別に毛があるとかないとか、あんな血相変えてまで悩むことでもないだろ。
もしかして、課長の眉間の皺って、あのコンプレックスから来てたりして。いつでもすげぇ不機嫌そうで、綺麗な顔してんのに、あれだけ険しい表情されたら誰も近づけない。でも、自分の下の毛がないことを誰かに知られたくなくて、あの表情を作ってたりしてな。だって、さっき。
――でも、誰にも言わずにいてくれたのは、その……ありがとう。
一瞬で鬼みたいな表情とオーラが消えて、代わりに桜の妖精なんじゃないのか? と間違えそうになる、ピンク色の頬と戸惑う少女みたいに伏せた視線。突付いてみたい衝動に駆り立てる、なんともいえない甘い雰囲気。
あっちが本物の花織課長だったりして。
――そのまま、黙っておけよ。
でも、そんな花みたいな表情はすぐに引っ込んで、代わりに鬼の営業課長が現れた。綺麗な顔してるから、睨むと凄みがハンパじゃない。あれじゃ、パイパンってバラした途端に、俺がバラバラにされて海に沈められそうだ。
「別に毛の一本二本……」
温和で人当たりのいいはずなのに、あの課長の二面性を、家政婦は見た状態で知っちまったせいで仕事に集中できない。
「毛がどうした?」
「!」
そんなぐーたらしたところを見られただけならここまで飛び上がらなかった。飛び上がってビビるとかそんなん、すげぇカッコ悪いだろ。でも、威圧感のある低い美声に自販機の前でふてていた俺は驚いて、慌てながらも振り返る。
「見積もり、出したのか?」
「あ、はい」
「乾燥する時期だから水分摂取などの、少しくらい休憩は良しとされているが、早くデスクに戻れ。いくつかアシスタントが書類を見て欲しがってたぞ」
水分摂取って、硬い言い方。生真面目。でも……パイパン。
「今、戻ります」
「……」
気のせいかもしれないが、背中に視線を感じた。
もしかして、バラしてないか、見てたりする? そこまでするか? たかが毛で? 毛が生えてるとか生えてないとか、そんなの仕方ないだろ。そんなこと言ったら天パの奴はどうすんだよ。天パってだけで一日中ずっと眉間に皺を寄せてる奴なんていねぇっつうの。たしかにコンプレックスは人それぞれだし? そういうことで悩む深刻さっていうのも人によって違うだろうけど。でも、たかが毛だろ。しかも生まれつきなら別にいいんじゃねぇの? 元からツルツルならさ。元から、じゃなく、後天的にツルツルになってる人に比べたらマシだろうが。考えてもみろよ。昔はこんなにフサフサだったのに、今じゃ見る影もないっていうほうが深刻だし、悲しいだろ。あったんだ、そこにたしかに「毛」があったんだ。それなのに、今、その場所には一本たりとも生えていない。あったのに。
「……私の頭がどうかしたか?」
「!」
目の前にはハゲ、がいた。
「あ、いえ」
見積もりのことで材料費の確認を経理課へしてほしい、とアシスタントからメモが来ていた。俺はそのメモを持って、今度は材料の仕入れの件で経理課へと向かい、そこの経理課長のツルツルピカピカ頭を凝視していた。
わざとじゃないっつうか、や、無意識だったんだけど、毛の事を考えてたら、目の前にツルツル頭があったもんだから、つい、そのツルツル具合をガン見してた。
「すみません」
謝ったら余計に経理課長が怒ってた。や、これは俺が悪い。つうか、この人も大昔はフサフサだったわけで、今はこんなに寂しくなったけどさ。な? ほら、だから、元からないなら、それはそういうものって割り切れるだろ。だって、初っ端からねぇんだからどうしようもないしな。
なんて、また、その課長の頭皮を眺めていたらしく、バチン! と、ハエか蚊でも止まってみたいに課長が平手打ちをデスクにかましていた。
「あ、庄司さん!」
経理課を出てすぐ、追いかけるように呼び止める女の子の声。
「あの、すみません。これ、課長がハンコ押してないので」
「え? あぁ」
たぶん、これって嫌がらせ、なんだろうな。課長の承認印がなかったから、もう一度別フロアにあるこの経理課へ来てハンコをもらわないといけないから。ハゲ、をガン見していたから、その仕返し。ちっせぇ。
「はい。どうぞ」
代理でハンコを押すっつうのはナシだろ。と、思うけど、まぁ、あれだ。別にそこまでギチギチに言わなくてもいいだろ。経理課長がこの書類に目を通していたのはわかってるし、この彼女、俺に脈ありっぽいし。
「ありがと」
ニコッと笑うと、頬の赤みが増した。元からチークを塗っているのもあるかもしれない。やたらと赤くて、お面みたいに見える赤い頬だった。
あれ。
花織課長のあの頬の色ってなんなんだろうな。化粧してないからか? だから、あんなに綺麗な貝殻色なのか?
「ごめんなさい。うちの課長……」
「あぁ、いいって、ありがとね」
そっちの課長も毛がないけど、うちの課長も毛がない上に、短気で、あと、執念深いから一緒だ、とはバラバラにされそうだから言わずに、営業スマイルキープで立ち去った。
毛がないと、短気になるのかもな。どっちも胃に穴開けそうなくらいに怒りっぽいし。ツルツルしてるとそうなるのかも。
「……はぁ」
でも、顔は雲泥の差っていえるくらいに違ってるけど。
花織課長はまだうちの部署に就任してから日が浅い。課長の歓迎会は花織課長が来る以前からもうすでに企画されていた。でも、一瞬たりとも笑顔を見せない課長を目の前にして大歓迎の宴って気分にもあまりなれなくて。
――悪い、歓迎会はしなくていい。まだ引っ越して間もないので、ちょっと無理なんだ。気持ちだけありがたく頂くよ。忘年会? あぁ、申し訳ない。その日は出張で帰りが遅くなる。
そう言って断られた時は、皆なんとなくホッとしたっていうかさ。
「しょしょしょ、庄司君!」
「どうしたんですか?」
経理課から戻ってきてすぐ同じ営業の先輩にワイシャツが皺くちゃになりそうなくらいに引っ張られ、避難訓練が抜き打ちで始まったのかと思うほど、机に下へと潜らされる。
「大変だっ!」
まぁ、避難するくらいのことが発生したら大変だわな。
「課長が来る!」
「……へ?」
「課長が、来るんだ!」
何? ホラー映画っぽく? でも、あの人相ならお化けっていうよりも、怖いドラキュラとかのモンスターのほうが部類分けとしてはありかなって。
「来るんだ! 忘年会に!」
そう言い放つ先輩の顔は真剣そのもので、おふざけ禁止の避難訓練みたいに緊迫感溢れるものだった。
ともだちにシェアしよう!