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第5話 花織課長が泣いた日
別人みたいだった――外ヅラ良くしている俺のことをそう言ったあんたのほうこそ別人だ。あの昼休みからずっと、俺の知っている「花織課長」ってなんなんだって疑問に思うくらい全然違う。
卑猥な言葉は口にするわ、自分で「ぱいぱんなんだ」と自白しておいて真っ赤になって照れるわ、しまいには泥酔してふらふらになったりして。
「んひゃっ!」
隙だらけ。
あの花織課長が空いているカウンターの一席に座って、部下である俺が運んできた水の入ったグラスを頬に押し付けられるまで、ボーっとしたりして。冷たさに声をあげるとしたって、いつものあんただったら。
何をしている。
そう言って、悪戯をしかけた奴を睨みつけ、石に変えたりしてるはずなのに。なんだよ「んひゃっ!」って細い肩をすくめてまでびっくりしたりして。
「水、飲んでください」
「……ありがと」
びっくりするのはこっちだっつうの。吐いてアルコールが出て行ったのか、だいぶ楽になったみたいで薄っすら頬が赤い。頭のてっぺんはまだゆらゆら揺れているけど、でも、気分は良さそうだ。
「……優しいな」
三十、歳は三十だろ? しかも営業課長が両手でグラス持って、酔っ払ってる自分自身が揺れてるせいで波立つ水面を見て、楽しそうに笑うなよ。びっくり通り越して見惚れそうになるだろ。
相手はあの花織課長で、男だっつうのに。
「さっきまでは乱暴で口の悪い奴なんだなぁ……って、思ったんだが、やっぱり……あー……いや、違うな」
ホント、酔っ払ってやがる。揺れながら、微笑んだりして、その唇もさっきまでは真っ青だったのに今は赤くて、水を飲んだ直後だからなのか艶まであった。
「もっともーっと」
誰だよ、あんたは。
「優しい」
ふわりと笑って、その笑顔に見惚れている俺のほうへと視線を移した。眼鏡越しでもすげぇ鋭さで部下を一喝しては縮み上がらせる瞳のはずなのに、今、ばっちりぶつかった視線に俺は縮み上がらない。ただ、ドキッ、とした。なんで、俺が男のあんたと目が合ってドキッとしなくちゃいけねぇんだよ。
「っ」
「は?」
本当になんなんだ、この酔っ払いは。すげぇめんどくせぇ。
「課長? は? ちょ、泣いてる? んすか?」
その潤んだ瞳からポロッと透明な雨粒がひとつ落っこちた。
「っ!」
今度は泣き上戸かよ。本当に面倒な奴だな。こんなめんどくせぇ奴初めてだから、なんか心臓がバクつくだろうが。酔って、廊下でへばってトイレで吐いて、今度は泣くとかありえねぇ。
「どっか痛いとか? まだ気持ち悪い? 吐くなら」
自分でも無意識に溢した涙だったのか、俺がその涙の訳を尋ねたところで頬が濡れていることに気が付き、急いで顔を下へと、足元へと向ける。この人の頭が邪魔をして見えないが、あの大きな雨粒はきっと床を濡らしていた。
「違う、平気だ」
下を向いたまま、俺の腕のところの服をぎゅっと手で握る。
「どうしたんです?」
「すまない……」
ぽつりと呟いた声はか細くて、その肩よりも頼りなげで、ドキッとした。そしてそのことに俺自身が戸惑う。女が酔っ払って泣き上戸になった時だって、動揺なんてしなかったのに。戸惑うどころか面倒だなって思ったくらいだったのに。
「まだ、吐きそうっすか?」
「気分はだいぶ楽になった」
でも、縋るように俺の腕に捕まるこの人の手に全神経が集中する。毛を逆立てた猫みたいに、背中の辺りがピリピリとしている。
「課長?」
「昔、のことを、ちょっとな……中学生の頃、男子なんてバカみたいにはしゃぐだろう?」
ちょうどその時、オーダーが入ったことに店員たちが一斉に声を上げて挨拶をした。それがうるさくて、この人の柔らかい声がちゃんと聞こえなくて、「おい」と言いたくなるくらい、ちょっとだけ眉間に皺を寄せてしまった。
「夏にプールで水着を取り合うなんて呆れる遊びをしてたんだ」
いきなり何を話してるのかと、賑やかな店の中で、聞いて、理解しようと耳が必死にこの人の声を追いかける。
中学生の男なんて、小学生と大差ない。下ネタは大好きだし、バカみたいにはしゃぐ、ちょっと身体はでかくなってランドセルは使わなくなったっていうだけの、ただの子ども。だから、夏にプールの授業にはしゃぎ、ただの着替えですら楽しそうにしている。
よくそういうのある。ほら、ガキなんてそんなもんだろ。男子なんて単細胞な生物だからさ。
「わっ! 私はやってないぞ!」
「わかってますって」
そんなにムキになって否定しなくても、あんたはそういうの率先してやらないだろうってことくらいは俺でもわかる。
「それで、見つかったんですか?」
「!」
「毛がないこと」
ユラリと揺れていた頭が固まったように止まって、何かに身構えるように課長の細い体自体が硬くなる。
「親友だと思っていた奴に大笑いされた」
単細胞な生物だから、もちろんデリカシーなんて持ってない奴もいるわけで、たまたま課長の親友って奴もそれを持っていなかった。指差してまで笑った親友のせいで、ただ身体的な特徴ってだけだった毛がこの人にとって最大の欠点となった瞬間だった。まさにトラウマ。しかも思春期だから、そういうことにはかなり敏感な歳頃だろ。
「そこからは段々ひどくなってしまったんだ」
親友だった奴にとっては他愛のないじゃれ合いの中のひとつ。でも、この人にとっては絶対に知られたくない自分の欠点となって、重く自分へのしかかる。そのことばかりが気になって、親友が誰かほかの友達と話しているのを見るだけでも、自分のことを言っているんじゃないかって、笑われているんじゃないかって思えてきて怖かった。もちろん、友達なんていない。ずっとひとり。そうしたら、寂しいかもしれないが、笑われたりバカにされることはなくなるだろ?
「そのうち、人に触れられるのもイヤになって、過剰に反応するようになってしまった」
あぁ、なるほど、そう納得してしまう。この人が四六時中眉間に皺を寄せていることも、今さっき、倒れそうなところを手で支えた時に見せた飛び跳ねたのも、あんなに必死に自分の「欠点」にもがいていたのも。全部、俺にとってはたいしたことなくても、この人にとってはすげぇ悲しい記憶と一緒に残った傷だったんだ。
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