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第6話 後悔後先……

「宴会、戻りますか?」  ずっとこのカウンターに居座るっていうのもどうかと思うし、それに席を立ってからしばらく経つ。 「戻れない」  昔負った心の傷に涙をする課長には不謹慎な話だけど、俺はそんな課長の腕を持って支えながら、さっきの泣き顔がまたちょっと見てみたくて、できるかぎり首を傾げた。  そう、見てみたいと思った。ただの興味本位。  でも、そういうのは大概、後々になって後悔する。あぁ、あの時、軽はずみなことをしなければよかった、もう少しちゃんと考えるべきだったって、そう後悔する。 「こんな顔じゃ戻れないだろう」  自分が今、俺の手で支えられていることを確認してから、手、腕、肩を目で辿り、俺を見上げた。 「課長が泣いてるなんて、それこそいい笑い者だ」  潤んだ瞳は天井にある照明から放たれる光を全部集めたように輝いていて、涙を溢したせいで睫毛は濡れて、朝露を溜め込んだ葉のよう。頬だけじゃない、気分が悪くて噛み締めていたのかもしれない唇は赤くぽってりと膨れ、少し恥ずかしいのかキュッと真一文字に結ばれていた。  花織要、その名前のまんま。 「……庄司? どうかしたのか?」  花のように綺麗な人が俺の名前を呼んでいる。 「俺、鞄取ってきます」 「え?」 「そこにいてください」  手が勝手に動いた。課長の腕を握り締めたまま、店の出入り口に入店待ちをする人や会計の順番待ちの間に、と置かれた椅子へ座らせ、そこから動くなと指示を出す。俺はそのまま部屋に戻り、先に失礼しますと手短に挨拶を済ませ、何気なく課長のバッグを持ち出した。皆、飲み放題だから元を取ろうと水みたいに飲んでいた。ほんの少し席を外しただけなのに、テーブルの上で並ぶジョッキの数に驚くほど。片付けがおっつかないほど飲んでいた。だから、課長のバッグがなくなったことなんて誰も気がつかないだろ。  本当なら会費として課長の分を置いていくべきなんだろうけど、それをしたら、俺が今、課長と一緒にいることを知られてしまう。それは困る。だから、こっそり逃げ出した。もしも、誰かが「あれ? 課長は? 鞄がない」と気がついたところで、帰ったんじゃない? の一言で終わる。  課長の鞄とコートを持って、自分の荷物も鷲掴みに持って、慌てたように靴を履く。  困る。一緒にいると知られるのは、邪なことを考えている俺には。 「……」  俺は、一体、何をしてるんだ? 「あ、荷物、持ってきてくれたのか?」 「……」  なんで、そんな急ぎ足なんだ? 「出ますよ」 「え? ちょ」  一瞬、よぎった疑問は次の瞬間、また消えた。 「庄司?」  この人に名前を呼ばれて、吹き飛んだ。 「あんたのコンプレックス」  ずっとそれを心の傷と一緒に「痛くて悲しい」ものとして記憶していた課長は、コンプレックスっていう一言を耳にしただけで、身構えた。痛みと連動した記憶は条件反射的にこの人を守ろうとその細い身体を硬くして、縮こまらせる。 「吐き出したら楽になりますよ?」 「……は?」  コンプレックスも傷口の痛みも、アルコールをさっき吐いて身体から出しちまったみたいに、全部外に出したら楽になる。ポカンとしている課長の目元にはまだ涙の雫が残っていた。しなやかに長い睫毛を濡らして、俺に腕を引っ張られて飛び出した騒がしい繁華街の中で何よりも輝いて、人の目を眩ませる。本当に正常な判断ができなくなるくらいに、他のものが何も見えなくなった。 「お、おい、庄司」  だから、何も見ずに、この人の細すぎる気がする腕を掴んだまま、真っ直ぐ歩いた。何度か花織課長が俺を呼んでいるのが後ろから聞こえてきたけど、全部無視した。あの花織課長を完全スルーとか、仕事で毎日しごかれている営業連中がもし知ったら驚愕してる。  でも、きっと、こっちのほうがサプライズレベルでいったら上だろ。 「どこでもいいっすか?」  あの花織課長をラブホテルに連れ込むなんて。 「え? は?」  部屋の内装写真が並んでいた。さすが週末の繁華街。もういくつか部屋は使用中になっていた。さっきまで忘年会を開いてたところから歩いて十分もすれば立ち並ぶホテル街の中のひとつを適当に選んだ。 「ちょ、おい、何を考えてるんだ! こんな、こんなところになんで、俺とお前で入らなくちゃいけないんだ!」  言い訳としては、そうだな、忘年会で酔いつぶれた上司を介抱するために、一番近かったホテルに入ったら、ラブホテルだった。そんな感じがちょうどいいかもな。  でも、本当は違う。ただ、細い腕、細い肩、細い首、それと白い肌に赤く色づく頬、唇に見惚れて、ほだされたんだ。 「何って、花織課長のことですよ」 「……は?」 「あんたのことだけ、考えてる」 「!」  ここで、「貴様、上司、しかも課長に向かって何を言っているんだ! 大バカモノ! 冗談では済まされないぞ!」と言って、いつも営業課のデスクから見える険しい表情でも見せてくれたら少しは理性が戻ってきたかもしれない。  いや、それでも無理だったかもな。 「おい!」  あんたの泣き顔に何かが消し飛んだ。理性だけじゃない。本当に周りの景色も吹き飛んで、花織課長のことしか見えなくなった。 「ラブホ、来たことくらいあるでしょ?」 「あるか!」  ギャンとまた叫んだけれど、今度は場所が場所だからあまり響くことはなかった。は? マジか? そう思って、腕をつかまれたまま、強い抵抗をするわけでもない課長へと振り返ると、目を潤ませながら視線をどこに向ければいいのかと戸惑っている 「あるわけ、ないだろうが」 「……」 「そういう行為そのものが……そのっ」  視線を横へ向けて、薄いピンク色の唇がポツリと呟く。 「その! あれだ! み、見せられるわけがないだろう! こんなっ! こんな……」  ゾクリ――とした。本当にこんなに全身の血が騒ぐような感覚は初めてだった。理性が消し飛んだだけじゃなく、何、これは、まるで本能を揺さ振られて、揺り起こされるみたいな感じ。ざわっと身震いして、腹の底がヤケドでもしたみたいに熱くて痛い。じっとしていられなくなる。  喉が何度も鳴った。 「じゃあ……」  花織課長の泣き顔に魔がさした。 「庄司?」  あんたの声におかしくなった。 「じゃあ、見せてよ」  花織要の涙に目が眩んで、男の本能を駆り立てられて、何も見えない、何も考えられない。ただ、目の前にあるとてつもなく綺麗な花を独り占めしたいっていう欲求に支配されていた。 「花織さんの、見せて……」  後で後悔するんだとしても、今、どうしてもこの花が欲しいっていう衝動になけなしの理性が勝てるとは思えないし、勝ってほしいとも思わなかった。自ら望んで、その衝動に操られてる自分がいた。

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