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第10話 少女漫画か映画みたい
――昨日の忘年会、お疲れ様でした! お会計なのですが、計算間違えしてしまったみたいで、皆さん、千円バックとなりました。月曜に渡しますね。あと、課長、いつの間にか帰ってしまって。会費、立て替えてもらってるんですけど、言い出しにくいですよぅ。
シクシク……そんな顔文字が文末にくっついていた。派遣から来てる営業アシスタントの女の子、荒井さんからのメッセージ。派遣で色々な職場にいたせいか、愛想良いし、頭の展開が早くてパッと対応してくれるから、けっこう仕事を頼んだりして仲が良い。そんな彼女からの無邪気なシクシク顔に溜め息が零れた。
その取立てをしたい相手と今、一緒にいるっつうの。
「……ン」
すげぇ、綺麗な寝顔。
睫毛長いんだな。目を閉じてるとそれがすごくよくわかる。昨日、涙で濡れた頬は布団のぬくもりが気持ち良いらしく血色の良いピンク色をしていて、甘く喘ぎまくった唇は穏やかな寝息を溢してる。
本当に真っ白な肌をしてた。でも、その肌にはキスマークが呆れるほどくっ付いてる。俺がその肌にキスした回数分ちゃんと残っていた。
「……はぁ」
何しでかしてんだ、俺。相手は課長だっつうの。あの、「花織課長」だぞ。酔った勢いでやること自体アウトだけど、相手選べよ。月曜からどうすんだよ。荒井さんよりよっぽどきついだろ、この状況。
そんなことを目が覚めてからもう百回は考えて、溜め息を吐いている気がする。
でも、止められなかったんだ。
本当にあるんだな。知らなかった。ほら、よくあるだろ、女の涙によろけてそのまま押し倒すみたいな衝動? そんなのドラマの中だけのことだと思ってた。
俺はこの人の涙に目が眩んだんだ。
すげぇ綺麗だった。ハッとするほど綺麗な泣き顔を見て、もっと泣かせたいと思った。この人の恥部を知っていることが余計俺の中の欲望を煽ったんだ。営業課の誰ひとりとして見たことのないこの人の泣き顔にそそのかされて、ほだされた。すげぇ、この人のことを暴きたいと思った。コンプレックスを持っているから、身体を誰にも見せたことがない。キスもセックスもしたことがない。
だから裸を見たかった。
セックスしたかった。
でも、キスは――しなかった。
なんか、そこは、ほら、少女漫画や映画じゃねぇけど、この人があまりに綺麗だったから堪えといた。欲望の塊を全部ぶつけるにはちょっと綺麗すぎたから、そこは遠慮したっつうかさ。
だからって、アウトには変わりないけど。酔った勢いで押し倒して、何も知らないこの人のことを言いくるめてセックスしたけど、ファーストキスは奪わずにいてあげたんで、大丈夫っすよね、なんて、大丈夫なわけねぇじゃん。
「……」
チラッと隣を覗き見ると、スヤスヤとまだぐっすり眠っていた。この人、眠り姫なんじゃねぇ? って言いたくなる位、ラブホでがっつり眠ってる。この人が、あの仕事のできる、っていうか出来すぎる花織課長だなんて思えないくらい、可愛い寝顔。
いくら隣で溜め息を連打で吐いても起きる気配がない。溜め息って吐息のひとつだけど、音がやたらと目立つから、起きたりしそうなのに。
もしかして、狸寝入りだったりして? 俺も気まずいけど、この人だって気まずいだろ。あんなに乱れたんだ。記憶がもしあるのなら、あんなに悦がっておいて、しれっと起き……そうだけど、この人なら「それがどうした」とか普通に言って、眉間に皺寄せそうだけど。
だからだよ、だからこんな魔ががっつり差したんだ。「それがどうした」って顔をして平然とてきぱき仕事こなして、元営業課長の苦虫を噛み潰したような顔もしれっとスルーするような人が目を潤ませてた。恥ずかしいって小さい声で呟いてから、泣きそうになったりしたら、そりゃ、魔が差すだろ。元から名前に見合った美人なんだし。
美人って、いくら綺麗だろうが男だし。
そう自分の思ったことを即座に自分で否定しつつ、ベッドをこっそり抜け出そうと思った。白黒はっきりさせそうなこの人でも、ただ毛がないだけのことをすげぇ深刻なコンプレックスだと思ってた。それなら、きっと昨夜の自分に乱れた姿はそのコンプレックス以上にはしたなくてイヤだろ。
ここはお互いにそっとスルーするっつうのが一番な気がする。
だから先においとましょう、と思った。宿泊代金だけはこっちが出しておいたほうがいい。この人は上司だけど抱かれる側で、しかも処女だから、負担は絶対にあるだろうし。金くらいはこっちで出すだろ。だから、そっと着替えて先に出ようかと。
「……」
そう思ったんだけど。
振り返ると本当に寝てるとしか思えない寝息が聞こえてきた。すっげぇ気持ち良さそうに寝てる。掛け布団に鼻先を埋めて、閉じた瞼の際に並ぶ長い、長い睫毛。髪はセットされてないから、好き勝手な方向へ。きっと、起きたら寝癖で大惨事になってそう。
始発で出張してた。片道何時間も新幹線に乗って交渉が終わってすぐ帰りの新幹線に飛び乗って、忘年会に参加していた。
視線を部屋の隅へと向けると小旅行ができそうな大きさのバッグがおとなしくそこで待機している。
もしかしたら、日帰りじゃなくて、向こうに一泊だったのかもしれない。距離がかなりある客先で、行って帰ってくるだけでも大変そうだった。たぶん、俺なら日帰りにはしなかった。泊まりにしていたと思うほどの遠方。
「……花織さん」
「……」
やっぱり本当に寝てる。名前を呼ばれて、今、ぴくりと瞼が反応した。覚醒の一歩手前って感じ。
「花織さん」
「……ん」
寝ぼけてなのか、それとも昨日喘いだからなのか、やっと聞き取れるほどの小さな声は掠れていて、自然と耳を近づけてしまう。
「花織さん、そろそろ出ないと」
「ン」
まさに、眠り姫。
「起きれますか?」
「…………っ! っ、っ、っ!」
声がするって耳が反応して、ふと、目を開けて、このシーツは誰のだ? と、一瞬だけ怪訝な顔をする。でも、すぐにその声が自分の部下で、昨日、自分を抱いた男のものだとわかって、目をまんまるにしてこっちを見上げる。
見上げた先に俺を見つけて、大丈夫か? と、心配したくなるほど顔を真っ赤にしながら、口元を掛け布団で覆い隠した。
「おはようございます」
「っ!」
すげぇ気まずい。って、当たり前だろ。男同士で酔った勢いで扱き合って抜き合うくらいなら笑ってすませられるかもしれないが、これは笑って済ませるにはさ。
一回だけじゃねぇし。
「しょ、じっ……ケホッ」
「大丈夫っすか? 水持ってきます」
「あ、りがと」
そう、一回だけしたわけじゃない。一晩かけて、サカリのついた駄犬みたいに、一番押し倒しちゃいけない人を押し倒して、正常位でバックで、座って跨らせて、何度も何度もした。
「あの、昨日はすんませんでした」
「……」
冷蔵庫からペットボトルのミネラルウオーターを取り出し、手渡す。お前も飲むか? って差し出されて、首を横に振ると、もう二口三口飲んでいた。苦手なんだ、ただの水を飲むのは。
「庄司」
やっぱり声、掠れてるな。
「昨日の、ことなんだが……」
わかってますって。お互い酔った勢いでしたことなんで、ちゃんと忘れますから。
「ありがとう」
「……え?」
「嬉しかった」
ちゃんと、忘れて、大人らしく、なかったことにしますから。
「その、笑ったりしないでくれたのが、嬉しかったんだ。それに本当に途中から恥ずかしいと思わなかったから」
「……」
「感謝してる」
「え、感謝って……」
「お互い男だし、大人だし、職場の人間だ。まぁ、酔っていたし、このことは忘れよう」
キスはしなかった。セックスはしたくせに、少女漫画か映画みたいに、キスは奪っちゃダメだろって思った。
「ありがとうな」
でも、今、どこにでもあるラブホテル、どこにでもある使い古されたベッド、ここにあるもの全てが不似合いな笑顔を見て、俺はキスしたくて仕方がなかったんだ。少女漫画か映画みたいに心臓が飛び跳ねていた。
その全部をなかったことにしましょうと、会社の上司が俺に笑って言っていた。
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