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第11話 ないない、なんでもない

 ラブホテルをスーツの男ふたりで出て行くのはいかがなものか、と悩んでいた。たぶん、あの人は考え込むタイプなんだろうな。別に出てきたところをカメラで激写されて、ネットに流され週刊誌に追われる芸能人じゃねぇんだからって俺は思って、真剣な顔をして眉をひそめてるのを笑うと怒っていた。  だから、それぞれ時間差で外へ出てそのまま帰った。 ――それじゃ。  その一言が昨夜のことを記憶から消す合図。本当に合図みたいだった。真面目に掛け声でもかけるように、別れ間際に律儀に挨拶をする花織さんがおかしかった。  あの人が顔をしかめてることに笑ったのは初めてだった。変な人だ。普通、酔った勢いで押し倒してセックスするような男、上司としてとか以前にぶっ飛ばされても仕方がないのに、なんで笑って「嬉しかった」なんだよ。なんで笑って「忘れよう」で済ませるんだよ。  だから帰り道、営業アシスタントの荒井さんから来たメッセージにまだ返信をしていないのも無視して、ずっと、本当にずっとあの、変な上司のことを考えていた。  しかめっ面、悲しい思い出に涙する顔、パニクって慌てた顔、気持ち良さそうな顔、そして、俺に抱かれながら涙した顔。花織さんの色んな表情を思い出しながら、昨日のアルコールが戻ってきたみたいにふわふわした足取りだった。  俺の実家は地方で、大学も地元だったけど、就職はこっちでするつもりだった。だから就職活動はこっちでだけして、卒業としたと同時にこっちに上京。  今は彼女はいないけど、でも、途切れたことはない程度には、女ウケはする。もちろん、セックスは経験済み。  なんでもそつなくこなせるタイプ。  仕事も普通にこなせてると思う。あの鬼みたいな「花織課長」に一度もやり直しを食らっていない数少ない営業だから。  そういや、花織さんって呼んでも睨まれなかったな。っていうか、あの人、自分がそう呼ばれたこと認識してんのかな。セックスの最中、何度も名前を呼んだけど、絶え間なく喘ぎ声をあげていたから、孔をきゅっと締め付けて返事の代わりにしているみたいだった。 ――あぁぁっ! ン、あぁっン……ん!  突く度に気持ち良さそうにしてた。あんなセックス、初めてした。  声ひとつで理性がぶっ飛んで、そのまま自分の立場とか、セックス後のこととか少しも考えずに無我夢中になったのなんて。  吸い付くような肌、細い腰、肩は骨っぽいのに自分の下で気持ち良さそうにくねったりするから、女の裸よりも興奮した。 ――あぁぁぁっン!  奥を思いきり突くと喉反らせて声を上げる様子は、見ているだけでもたまらなく気持ち良くて、何度も奥ばっか狙って突いたりした。ペニスにしゃぶりつく粘膜だけじゃない、あの人の全部が気持ち良かった。  あれ、あのコンプレックスがなかったら、すげぇんだろうな。眉間に皺を寄せたりしないで、ニコッと微笑んだりしたら、その辺の男が数人フラフラついてきそうだ。 ――嬉しかった。  今朝、頬を染めながら、そんなふうに呟く花織さんは、可愛。 「くねぇ! ねぇ! ねぇっつうのっアタッ! っっっっ、イッテェ……」  帰って来て、二日酔いともまた違うフワフワした足取りをシャキッとさせるべく、コーヒーを煎れようと、棚の上段を開けて、コーヒー豆をコーヒーメーカーにセットした後、棚の扉を閉めるのを忘れた。んで、忘れたまま、頭の中で、気持ち良さそうに腰を突き出すあの人を思い出して、棚の角に額を思いっきり打ち付けた。っつうか、角だから突き刺さったんじゃねぇ? ってくらいに痛くて、激突した額を押さえていた掌をつい確認した。掌にもしかしたら血がついてるんじゃないかと思うほどに角がマジで突き刺さったから。 「っ、マジで、ねぇ……」  ボーっとして、こんなドジをするなんてこと、普段なら絶対にない。自分の家の棚の高さくらいバカじゃないから覚えてる。 「ねぇ、っつうの」  額ぶつけてしゃがみ込みながら、ひとつ溜め息を溢した。ないだろ。あの人、男だっつうの。何? 可愛いって。あの「花織課長」の眉間の皺とかさ鬼みたいだって思ってたのに、なんで、可愛いとか綺麗とか思ってんだ。男だぞ。 「……」  でも、その男である課長をほぼ一晩抱いてたのは俺だけどさ。  二日間、ことあるごとに思い出していた。ちょっとしたショック状態に近いのかもしれない。ゲイだったら男相手に発情もありだけど、俺はゲイじゃない。でも、ゲイじゃないのに、あの人のことが抱けたっつうか、がっつりセックスしてた。しまくってた。萎えるナニソレ状態だった。ぶっちゃけ、裸見ただけで勃ってた。まさか、自分にもくっ付いているペニス握って扱いて、痛いくらいに自分のも張り詰めさせるとか思いもしなかった。  昼下がりのオフィスで、あの「花織課長」がエロ動画を見ていた、音声ダダ漏れしてた、っていう青天の霹靂はまだ序の口で、本番はこっちだった。 「ど、どうしたんですか? 庄司さん」  ずっとそんなことばかりをグルグルとずっと考えていたせいで、棚に頭はぶつける、週末、食料の買出ししに行っては棚から物をぶちまける、ガードレールに体当たりする。もう散々だった。何度も何度も痛い思いをする度に「おい、忘れるんだぞ?」って言い聞かせる自分がいた。 「あー……疲れ?」  散々だったのが顔にも体にも出ているらしく、メッセージのやり取りをしている派遣社員の荒井さんが心配そうに声をあげる。  課長は……まだ来てなかった。 「大丈夫ですか?」  営業それぞれの予定を書き込んでおくホワイトボードには行き先が書いてある。でも、そこの一番上にある花織課長の欄には何も書かれていない。どうしたのかなと、荒井さん含め、皆、忘年会で神隠しのように戻ってこなかったこともあって心配していた。あの連絡不足をいつも注意しているはずの鬼課長自らが連絡を怠るなんてことありえない。何かあったのかもしれないと。  たしかに「何か」はあったけど。 「目立つ?」 「はい。けっこう」  ボーっとしすぎてあっちこっちに体当たりをしていたけど、さすがに朝一番に会ってすぐデスク前の女子に心配されるほどとは思ってもいなくて、トイレで大丈夫かどうか確認しようと思った。午後、一件だけ客先のところに行かないといけないから、顔面負傷が仕事に差し支えるレベルで目立ってたら延期させてもらおうかと。  そう思い席を立ち、部屋を出てトイレへと向かったところで。 「あ」 「あ」  花織さんと遭遇した。眼鏡越しの瞳が俺を見つけて大きく見開かれる。びっくりした拍子に声をあげて開いたままフリーズした唇はあの晩よりも控えめなピンク色だった。でも、頬は俺を見つけてあっという間に濃い色に染まっていく。 「おはようございます」 「お、おはよう」  少し戸惑ったような口調だった。あのさ、もう、あの晩のことは忘れましたか? なんて、わけわかんねぇことを聞きそうになるくらい、うろたえていて、無防備な「花織さん」だった。 「すまない。ちょっと私用で遅れた。おい、その額、どうしたんだ?」  花織さんがものすごい怪訝な顔で俺の額を覗くように見上げる。荒井さんもひと目見て気がつく青タンをこしらえた額。 「なんでもないです。ちょっとぶつけて」 「そうか……」  いままでだったらここですれ違って俺はトイレへ。花織さんはデスクへ向かう。でもふたりともそこで足を止めて少し俯きながら、何か言ったほうがいいのかもしれないと、お互い慌てて言葉を探してる。そして、俺は口を開いた。 「あの……」 「!」 「身体、大丈夫でした?」  ひとつだけ、確かめたくて。もう忘れることになっているから、貴方は忘れたかもしれないけど、でも、俺はまだ覚えてて。 「だ、大丈夫だ」  答えてくれたことにホッとしてた。なんのことだって眉間に皺を寄せながら怪訝な顔をされるかもって思ったから。 「わ、私のほうこそ」  あ、そういや、この人、セックスの最中は俺って言ってた。あまり違和感なく聞いてたけど、職場ではいつも自分のことを私って言ってたっけ。うわ……なんだ、それ。すげぇ、ゾクゾクする。って、おい、なんで俺がっつり思い出してんだ。 「その、君は平気だったかと」 「え?」 「な、なんでもない!」  顔を真っ赤にして首を横にブンブンと振り慌てて、俺から逃げ出す背中を眺めながら、全然平気じゃないし、すみません、俺、全然覚えてますって心の中で返事をしていた。

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