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第12話 ふわり、ヒリ、ピリ

 遅刻してきた課長。外回りから直行で出社だったため、ということで一時は皆納得したものの、その後すぐに、また別のことでざわついた。  だって、どう考えても、デスクにいるのは花織課長のお面をつけた別人みたいに思えて仕方がないから。  もしかしたら、出社途中で宇宙人にさらわれて、外は「花織課長」、中は宇宙人っていうふうに、中身が違うんじゃないか、なんてバカなことを考えてしまいそうなくらい、今日の花織課長は別人だ。 「課長もお昼、一緒に外、どうですか?」  だからチャレンジャーな荒井さんが花織課長をランチに誘った。この前の丼専門店の海鮮丼がワンコインにも関わらず、中トロが入ってたらしい。今日は営業課のほぼ、っていうか、俺以外の全員で食べに行くことになった。っていうか、そんな話が先週末の忘年会であったんだそうだ。で、その時にはすでに忘年会を抜けていた俺はこのこと自体を知らず、コンビニで飯をすでに買ってきていた。もう年末年始に向けて会社も、客先もムードは一変している。納期が年末の品物に関しては年内に収めることができるかどうか、年始の場合な年またいでの納期に工程がちゃんと追いついているのかどうか。その辺を確認しないといけなくて、俺も、デスクで進捗の一覧を作ろうと思っていた。だから、今日の俺はコンビニ弁当。皆はワンコイン丼を食べに外へ。で、俺と一緒に忘年会を抜けてしまって、丼のことなんて露ほども知らない課長は? 「あー……み、皆で、行くのか?」  花織課長、それ、キャラ崩れてますよ? いつもの貴方だったら、って、考えたけど、そもそも、いつもの花織課長に誰かが、ランチ一緒にどうですか? なんて声をかけたりしない。私はひとりがいいんだオーラが全身から漂ってるから。でも、今日はそのオーラが和らいでいた。というか、ほぼ消えていて、一度、見積もりチェックを催促されたくらい。いつもだったら、見積もりですって言った瞬間には、厳しく鋭い眼差しがチェックし終わっている。  だからこそ、荒井さんも声をかけられた。  ボーっとしたりなんてして、口調だって、声色だってなんかものすごく柔らかいし。デスクに座っているのは、あの晩、俺だけが知っているはずの花織さんだ。荒井さんと話しながら、少し戸惑ったりして、薄く開いた唇がものすごく無防備だ。っつうか、無防備すぎんだろ。あんなにガードが硬いはずなのに、なんで、そんなに今日は違うんだ。それじゃ、実は可愛いって、バレ……て? はい? 何、その、バレるのがイヤみたいな感じ。本当のあの人がどんななのかって、職場の人間に知られたら勿体無い、とか。  まるで、それって。 「いえ、庄司さんはもう買ってきちゃったみたいなので、ここで食べるみたいです」 「ぁ、しょう」 「すみません。俺、今日、外回り入ったので、そろそろ出かけてきます」  慌てて訂正していた。小学生の子どもが慌てて、手を挙げながら、前のめりになって発言するみたいに。 「あ、そうなんですか?」 「うん、ごめん。書き忘れてた。荒井さん、メールチェックお願いします」 「はぁい」  ニコッといつもの営業スマイルで言ってから、笑顔は崩さず席を立つ。  おいおい、俺、今日は外回りないはずだろ。っていうか、年末で納期調節とか入りそうだから、ここで進捗見張ってねぇといけないんじゃねぇの? 年末年始の製造ラインとか、まだ確認できてないとこだってあったのに。 「外、行ってきます」 「はーい。いってらっしゃぁい」  あったのに、なんで、外に出て行くんだよ。  あそこで自分の名前が出てきて、妙に胸が飛び跳ねた。荒井さんに他意なんてない。事実を言ったまでのこと。ただ、俺がいることを知って、課長がどうするのかが気になった。  それと、今日の花織さんは俺だけが知っている花織さんのはずで、無防備で可愛い、くないけど、っていうか、年上の男、しかも上司に向かって可愛いってなんだよって感じだけど、とにかくそんな花織さんで、バレたくないとか、まるでガキの独占欲みたいなものを感じたりして。  だから、慌てて外回りってことにした。年末のご挨拶ってことで、ちょうどよかったかもしれない。 「……いってきます」  課長デスクの前を通った時、会釈と小さな声でそれだけを告げた。あの人が俺を目で追いかけているような気がしたけど、ちゃんと確かめたわけじゃなくて、視界の端でそう見えたってだけ。俺の思い違いかもしれない。  でも、昼になった時に、俺とこの人しかいないオフィスは危険な気がした。今、胸のところにあるなんでか沸き起こった独占欲とかさ、そういうのがある俺は、この人とふたりっきりにはならないほうがいいかもって思ったんだ。  可愛い――なんて普通は思わないだろ。男で、年上で、上司に向かって可愛いなんて思わない。だから、視線は合わせなかった。合わせたら、また「可愛い」って言葉が浮かんできてしまうかもしれないって思ったから、そのままそっぽを向きながら、あまり必要じゃない外回りに木枯らし吹きすさぶ中行くことにした。  必要のなかった外回り。のんびりと時間潰しをかねた外出は、年末年始でやらないといけないデスクワークは山積みになっていることを思うと、余計にダラダラしてしまった。 「ただいま戻りました」 (おかえりなさい) 「……どうしたの?」  そして戻ったのは三時をすぎた頃。売り上げの高い、俺の担当顧客のところへ直接顔を出すと、代わりにと一件仕事をもらうことができた。だから、今日の外回りはダラダラはしていたけれど、でもラッキーだったかもしれない。でも、ラッキーなんて思える気分には誰もいないらしい。  事務所に戻ると、鬼に見つからないように、皆が緊迫した空間の中で息を潜めて、仕事をしていた。 (なんか、すっごい機嫌が悪いんです……)  ヒソヒソ声で荒井さんが自分の後ろを指さす。俺からしたらほぼ真正面、荒井さんは俺の斜め前に座っているから、彼女にしてみたらほぼ真後ろ。そこを指差して、顔をしかめてみせた。  その先には花織さんがいる。少し離れているここからでも充分わかるほど、眉間に深く刻まれた皺、険しいを越えて、もう眼力だけで人を金縛りにでもできそうな目つき。 「こんなんじゃ、年末までに収め終わらないぞ……ちゃんと連絡をしろ」  威圧感たっぷりな低い声。見ただけで不機嫌オーラが滲み溢れていた。でも、そんなのいつものことじゃん。今日の午前中の花織さんが特別だったんだよ。普段はこっちでしょ? 俺が知っているあの人はこれじゃないけどさ。 「課長?」  コクコク頷いていた。一言でも私語をしたら、無駄口扱い。そんな緊迫した空気で部屋がピリピリしている。 (お昼前まではなんかいつもとは違う課長だなぁって思ったのに、気がついたら、いつも以上の課長になってたんですよー!)  それだけを告げると荒井さんが鬼に睨みつけられないよう、背中を丸めて高速で書類作成にとりかかっていた。  機嫌、悪いのか? そっと、席を立つ眉間に皺を寄せた鬼課長をトイレへ行くフリをして追いかけた。追いかけながら、いつもの課長と、それにいつもどおりビビる皆がいてくれて、ちょっと嬉しくなってる自分がいる。俺しか知らない「花織さん」にちょっと鼻歌でも出そうなくらい。 「あ、課長。すみません。今日、挨拶行ったら、顧客から短納期なんですけど、仕事もらって、資材課へ」 「そうか」  フン、って鼻も鳴らす勢いで冷たい返事がきた。声も態度も、もちろん、眉間の皺だって「いつもの花織課長」がいた。今、俺と花織さんしかいないのに。柔らかさの欠片もない。 「他に何か用か?」 「……あ、いえ、えっと」 「用がないのなら、急いでる」  そして、そのまま背中が俺を威嚇、もしくは怒っているかのように、拒絶の気配を漂わせたまま、営業課を出て行ってしまった。 「……」  ピリピリっつうか、ヒリヒリ、のほうが合っている気がした。なんか、指先がイヤにざわついて痛かったから。

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