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第13話 距離が、さ……

 この人が眉間に皺を寄せるのは、自分に近づいて欲しくないから。身体的コンプレックスが原因で傷つけられることを極端に嫌っている。だから、自分から人を遠ざけていた。 ――この納期調整で本当に年内に客先に納められると思ってるのか?  声で威圧して、自分の近くに誰も寄るなって警戒する野良猫みたいに。 ――メールで確認? そんなだから、遅れが出るんだ。仕事してるんだぞ?  でも、そのコンプレックスはもうコンプレックスじゃないだろ? あんたを俺は傷つけることもしないし、笑うこともない。絶対にしないって、ちゃんと話したのに。お互いに、あの晩のことはなかったことにはしたけどさ、でも、だからって、そこまで徹底して距離を開ける必要あんのか?  コンプレックスのことだって、もう、あまり気にしないでいいって思ったんじゃねぇの? そしたら、そこまでビビって警戒しなくたっていいだろ。  でも、課長の態度は悪化していた。他の営業も息苦しそうに眉をひそめて、ライオンと化した野良猫が遠くに離れていくことを願っている。ホント、あの人が外回りでいない時と、いる時とで部屋の重力が変わるんじゃないかってくらいに、空気の重さが変わる。 ――おい、年始の納入予定、まだ出せないのか? 遅すぎる。  でも、俺にはその態度する必要ないだろ。 「あの、課長」 「……なんだ」  なのに、今まで以上に深く、眉間に皺を刻んだ。あまりにきつい態度、表情、声。でも、月曜の朝、遅刻してきた直後の貴方はどこか柔らかさがあった。そして、外回りから帰ってきたら、今まで以上に冷たく硬い「花織課長」になっていたのが気になって仕方がない。  ただ不機嫌なだけなのかもしれない。不機嫌がずっと続いているだけなのかもしれない。でも、セックスした翌日、あんなにほがらかだった人が、忘れてくれの一言で、部下に抱かれた夜のことを咎めない人が、どうしてそこまで威嚇しまくりなのか気になるんだ。気になって、気になって、確かめようと突付いてしまう。痛いってわかってるのに、何度も触って、そこが抉れていることをたしかめる傷みたいに。  そう、痛いのに。 「なんで、そんなに怒ってるんです?」  本当は「俺、何かしました?」って訊きたかった。荒井さんが俺の外回りの間にどんどん機嫌が悪くなっていったって教えてくれたから、自惚れだと思うけど、俺のせいで機嫌が悪いのかなって。でも、さすがに自意識過剰すぎるだろって、怒っている理由だけをたしかめることに留めた。 「怒ってなどいない」  営業課の部屋を出たところをさりげなく追いかけて、大股で歩み寄った。部屋の中じゃ、皆が鬼課長にビビって私語ひとつ言わず、空気はずっと張り詰めているから。小さな声だとしても会話は周囲に聞こえてしまいそうなほど、部屋の空気は緊張感で満ちている。 「怒ってるじゃないですか」 「別に……それよりも、お前は、見積もりを」 「もう直しました。ちょ、花織さんっ!」  仕事が滞りなく進んでいるのなら問題はないとでもいうように、その場を急いで離れようとするから、止まって欲しくて、慌てて腕を掴んでしまった。 「!」  捕まれたことに飛び上がるなよ。誰でもない、俺が、掴んでんのに。他の誰かならビビれ。大いにビビれ。野良猫が自分を撫でようといきなり出てきた人の手に飛び上がって逃げ出すように、他の奴らからは逃げろよ。でも、俺にだけは身構える必要ないだろ。 「別に怒っていない。元から私はこんなだろう」 「……」 「これから各課長が集まっての定例会だ」 「その後、話せないっすか?」 「……私とお前とで話す必要のある仕事はないはずだ」  冷たい声でそれだけを言うと、強くて、拒否の気配を持った足音をわざとらしく立てて、廊下を真っ直ぐ行ってしまった。  ないっすよ。もうあと一週間で冬休みだっつうこの時期に仕事のことであんたに相談しておくことなんてないっすよ。そこまでノロくないんで。  そうじゃない。そうじゃねぇよ。  あんたの眉間の皺は何が理由なのかって訊きたいだけなんだよ。 「……っんだよ」  でも、その日、定例会は定時から三十分ほど遅れて終わったにも関わらず、営業課の部屋に花織さんが帰ってくることはなかった。  営業所属の人間の予定を書き込むホワイトボード、一番上の課長花織要、の名前の横には「定例会」とあの人の文字で書かれた予定がずっと残っていた。ずっと居残って待っていても、戻ってこないから、その予定は残されたままだった。  避けられる、とは違う、かな。  仕事の話とかなら普通にしてくるし。でも、威嚇はハンパない感じ。眉間の皺だけを見たら、あの晩のことがいけなかった気がするけど、そうじゃない、とは思う。目を覚ました時のあの人は温和だったし、別れ間際には笑ってたし。ただ、忘れないといけないっていうだけ。  でも、俺はあの人のことを忘れられずにいる。忘れたほうがいいのはわかってる。上司との一夜限りのセックスなんて覚えておいたところでどうにもならない。なのに、あの不機嫌な視線が気になって、自然と俺は目であの人を追いかけてる。追いかけてるから、忘れられない。 「悪循環……」  そうぽつりと、つい口に出す程度には花織さんのことを考えてる。 「え? 何か言いました?」 「……いや、別に」  斜め前の荒井さんが静か、っていうか、空気が張り詰めたままの部屋で聞き取ってしまい顔を上げた。  別にさ、忘れればいいだけのこと。はい、あの人はそういう人ですって今までみたいにしてればいい。荒井さんも他の人も、今の花織課長が通常仕様だから違和感なく過ごしてる。  でも、本当のあの人はそうじゃないって知ってるから。知っちゃったから、そんなふうに過ごせないだけ。 「流行ってるんですか? そのワード、花織課長も」 「え?」  だから、あの人の名前に過敏に反応してしまうだけ。 「花織課長も同じことをこの前呟いてるの聞いたんです」  あの人のことをずっと考えてるから、つい、耳が、目が、追いかけてしまうだけ。

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