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第15話 この名前、なぁんだ?

 俺は、あんたのこと――  もう認めちゃえよ、俺。ここまで来て、別の名前をその感情につけたって、全然似合わないだろ。どう考えたって、その胸のうちにある感情にぴったりな名前はひとつしかない。 「遊び、なんだろう?」  花織さんが頬を真っ赤に染めながら、難しい顔をして、あんた本当に課長なのかよって言いたくなるほど、可愛く、口をへの字に曲げながら、そんなことをぼそっと口走りやがった。 「……は?」  そう、可愛いと思った。思ってた。タイトスカートも履かないし、白シャツがでかい胸ではちきれそうなわけでもない、もちろん黒いブラが透けてるわけでもない、ただの鬼上司で、男なあんたのことを可愛いと思ったんだ。それだけじゃない。 「庄司はモテるそうだな。荒井が言ってた。彼女の写真を見せてもらったことがあるけど、ものすごく綺麗な人だったと」 「いつの話してんだよ」 「今の話だ」  思いきり溜め息がひとつ零れた。 「今の、その、私と庄司が、そ、その、それをした後、に、荒井から聞いたんだ」  あんたのことを可愛いと思った。なぁ、でも、それだけじゃない。 「もうとっくに別れてる」  そういうのすっげぇめんどくせぇ。勘違いとか、すれ違いとか、あんたのやることなすことすげぇ面倒。酔っ払ってるのを介抱するのだって、どうやっても何度も思い出すことを忘れる努力だって、今、あんたがしてる勘違いを説明するのだって、いつもの俺なら「めんどくせぇ」の一言で終わらせてる。 「……え?」 「あんたがうちの課長になる前に別れてるよ。いちいち、俺は彼女と別れましたなんて報告を職場の人間にしねぇだろ。あの子が納涼会で彼女はいるのかってしつこく訊くからいるっつって、写真を見せただけだ」  それなのに、今、俺は面倒だと思っていない。しかも、ちゃんと説明までしてる。 「別れ……」 「んで? 俺が遊んでると思って睨んでたのか?」  あんたに誤解されたくないんだ。 「違う」 「は? 違うの?」 「あぁ、違う」  また眉間にぎゅっと皺を寄せて難しい顔をしている。それでも頬は真っ赤だから、なんか顔面が忙しくて見ていて飽きない。 「この前、昼を外でって誘われた時、お前も行くのかと思って、ぃ、行くのなら、その、でも、慌てて行かないと言うのを聞いて、嫌われてるんだと」 「……」 「遊ばれただけだし。私は嫌われているから、その、もう、頭がこんがらがった」  悲しいような、寂しいような、怒っているような、どこか痛いみたいに歪んだ表情。  あれは一晩限りのことだ。お互いに酔っ払っていたし、どこかおかしかったんだ。誰にも打ち明けたことのない自分のコンプレックスを知ってくれていることにどこか気が緩んでいて、過去の嫌な記憶を打ち明けたし、何か妙な親近感が酔いと混ざってあんな結果になった。  だから、忘れなければと思った。  でも、忘れないと、忘れないとっと思えば思うほど、クリアなまま記憶は頭の中に定着して、消えてくれそうにないほど張り付いてしまった。それなのに彼女がいると知ってショックで、悲しくて、自分の身体的欠点を知られて笑われた時とは違う悲しさに戸惑ってしまった。 「こんな気持ちになりたくないとお前を遠ざけたいのに、遠くにいるのがわかると目が勝手に追いかけてしまって、どうしたらいいのかわからなくて怖くなったんだ」  本当に、悲しくて、寂しくて、怒っている表情だった。この人の感情が全部顔に出てた。俺のことでこんがらがっていた感情がさせた表情だった。 「庄司は男で、部下、なのに、私は」 「なぁ、花織さん」  ホント、綺麗な瞳だな。レンズ越しですらその輝きは真っ直ぐ俺へと届く。射抜かれて、もう、俺の中はあんたのことでいっぱいになる。 「自分のこと、私、じゃなくて、俺って言ってよ」  そしたらきっとあんたは気張ることなく、鬼の課長じゃなく、あのふわりとした意味不明なくらい甘い声で素直に自分のことが話せると思うから。 「ほら」 「……」  もう、これって、誤魔化しようがない。なぁ、俺は、あんたのこと―― 「お、れは……庄司と話したい」  真っ直ぐな瞳だった。 「避けないでもらいたい」  これに射抜かれない奴いねぇだろ。 「なぁ、庄司」 「……」 「この気持ちはなんなんだ!」  そんな意味不明な年上の男が本当に本気で困った顔をして、目まで潤ませながら、唇をわなわなさせながら、そんな質問をしてきた。ここまで来て、そこまで自分自身で言っておきながら、これは一体なんなんだ! なんて叫んでやがる。そんなの決まってるだろって、っつうか、わかんねぇのかよって。俺は呆れるどころか、この鈍感で敏腕な上司を心底可愛いと思った。 「なんなのって……」 「だって、お前は男だろう? 今、酒を飲んでもないのに、なぜかフワフワするし! 動悸がすごいんだ! なぜ忘れなければいけないことを忘れられないんだ! どうしてこんなに庄司のことばかり見てしまうんだ! お前は男なのに!」  この恋愛経験ゼロの鈍感童貞上司をめんどくさいと思うどころか、可愛くて、呆れるほど甘やかしたいと思った。 「何って……」  そんな答えを必死に待たれても、すげぇ、めんどくせぇ、どころかすげぇ嬉しい。 「そうだな……じゃあ、まず、なんだっけ?」 「な、何がだ」  身構えて難しい顔をした唇に思わず笑みが零れるなんて、初めてだぞ。 「もう避けてないのは大丈夫?」 「あ、あぁ」  あんたが欲しいと言ったこと。自分を避けないでもらいたい。それと、もうひとつ。 「俺と話したい」 「……」 「んじゃ、とりあえず、明日、十時に待ち合わせで」  めんどくせぇ。童貞どころか恋愛もしたことがない三十路の上司とか、面倒以外の何者でもない。もう非処女のくせに、他の全てを未経験のまま三十年も生きてきたこの堅物に、あんたが持ってる感情の名前を教えてやるのはすっげぇ面倒。でも、それが楽しいって思う俺が今、持っているこの感情の名前も、あんたが持っているやつと一緒だ。 「待ち合わせ?」 「あぁ、三連休、全部使ってやる」 「……」 「どうせ、花織さんだって暇でしょ」 「しょ、庄司も暇なのか?」  彼女いないって言っただろ? そう返事をするだけで無意識のうちにホッとしているあんたと同じ感情。  俺は、あんたのこと――好きだ。 「三連休全部使って、俺と話しろよ」  俺はこの感情にその名前を付けてみた。

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