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第16話 三十路上司の嫌いなもの

 始まり方がかなり驚くものだった。まず、酔った勢いで一夜の過ち的なスタートからしてありえない。そこからはもう怒涛の流れ。あっという間に、落っこちた。  セックス済み。男同士でもしっかり、わりと身体ががっつり反応することは確認済み。  スタート地点から途中にあるアレコレソレを全部すっ飛ばして始まったのに、今、俺はそのスタート地点に戻ってきた感じ。クソめんどくせぇだろ。でも、童貞非処女で恋愛知識皆無の仕事だけできる不器用なあの人相手じゃそっからスタートだ。 「ま、ま、待たせたな」 「……」  この人相手じゃ、めんどくさいと思わないからまぁいいか。 「これから仇討ちでも始まるみてぇ」 「しっ、仕方がないだろ!」  営業としてお客との商談に出向く時はスムーズに話すくせに、冗談抜きで右手と右足が一緒に出して歩きそうなほど不器用な三十路上司がそこに立ってた。  っていうか、三十路上司に見えねぇ。三十の男でそこまでダッフルコートが似合うって奇跡的だろ。オフホワイトとかじゃなくてダークグレーだけど可愛いことに変わりはない。 「んぎゃあああ! な、何をする!」  そのコートの中はどうなってんのかと、首元に指先をくいっと引っ掛けて覗き見た。  中身はシャツにベストとか、三十路上司の服選びとしては笑いを取ろうと思ったんだろって言いたくなるくらいに可愛い系男子高校生、いっても大学生。眼鏡ってするのと童顔になるとか? 「んなっ! か、返せっ!」  眼鏡を取ると急にぼやけた視界の中でどうにか焦点を合わせようと、眉間に深く皺を刻んだ。眼鏡は、あってもなくても変わらない。どっちにしても可愛い。 「はい、どーぞ」  んでもって、俺は好きな子をいじめたくなる小学生のガキかよ。スカートめくりして、眼鏡を奪ってはしゃぐとか。  まったく、そうぼやいた花織さんが眼鏡をかけて、真っ赤な頬を膨らましながら、自分のダッフルコートの崩れた首元を直してた。  いつもよりも緊張してた。ぎこちなく現れたこの人は自分の固い頭で必死に考えたんだろう、カジュアルすぎず、かしこまりすぎない服を着て、これを「デート」だと認識しながら待ち合わせた駅前へとやってきた。まるで仇討ちか、決闘でも始めるみたいに身構えて。 「んじゃ、行くか」  この恋が始まることに身構えていた。 「あ、あの! 庄司!」 「……何?」  三連休初日、駅前は尋常じゃないくらいに混んでいて、屋根はあるが屋外とほぼ変わらないほど大きなトンネルになっているのに、それでも息苦しいと感じるほど。だから、早くここから立ち去ろうとその場を離れる俺をわざわざ、この激混みの中で捕まえて引き止める。 「あの、庄司はデ、デ、デ……デート! みたいな格好だな」  ダウンジャケットでもよかったけど、黒のコートにした。スラックスにスエードのシューズを合わせて、この後、夜にディナーくらいしても浮かなさそうな格好。 「そう?」 「!」  わざと意地悪でそう聞き返してるのに、そんなにきゅっと口元噛み締めたりするなよ。そのリアクションしといてまだそのダッフルコートの中で、今、少し苦しくなった胸の内を恋愛感情だとは認めようとしない。 「デートなんだから、普通だろ」 「……」  ここで頬を赤らめてはにかむとか、嬉しそうにしつつも困った顔をするとかしろよ。ホントにめんどくせぇな。全然、自覚なしか。ポカン、としやがって、自分の持ってる感情の名前をまだこの人はわかってない。もしかしたら、それに名前がついているのか知っているのかさえ怪しい。 「ほら! 今日はすげぇ混んでるんだから、はぐれるぞ!」 「!」  ハッとして慌てて真っ直ぐこっちへ向かって歩き出そうとした時だった。まるで俺しか、その視界に入ってないみたいに、イノシシのごとく突進しようと踏み出した一歩目で、横へと向かう誰かに体当たりされた。 「っとに、ありえねぇ」  どこが仕事のできる、わが社の「要」、新営業課長だ。転びそうになるところを腕を掴んで支える。ズレた眼鏡とかさ、うちの部署の人間が見たら、目玉飛び出るぞ。全員。 「す、すまない。あのっ!」 「デートだよ」 「……」 「これはデート。俺とあんたで」  三十路とは思えない服装で現れた、三十路とは思えない恋愛経験値がマイナスな仕事のできる新営業課長と始めるには最初っからやり直さないといけない。すげぇ面倒なはずなのに。 「花織さん!」 「……」 「置いてくぞ!」 「!」  眼鏡が一瞬ズレるくらいに飛び上がってから、テクテクと音が聞こえてきそうな足取りで追いかけてくる。知らなかったよ。あんたのそれ、俺にとってはたまらなくツボらしい。 「うわぁ!」  仕事の時は隙なんて一ミリだってないくせに、今はあっちこっちで体当たりされそうな隙だらけの人の手を引っ張って自分の横に強引に連れてきた。そして、このクリスマス三連休でぐったりするほど混んで、雑音だらけの中でもちゃんと聞き取れるように、耳元に唇を寄せた。真っ赤な頬と同じ色に染まった耳がすぐそこ、キスできる場所にある。 「花織さん、俺といる時以外は、ここ」 「!」  指先で触れた場所は、「花織課長」のシンボルマークみたいな厳しい表情を作り出す眉間。 「ちゃんと、しかめっ面にしておいて」  その眉間を指でグリグリ押してから、何事もなかったように歩き出す。わかってる? 今、俺は独占欲からそんな事を言ってるって、あんたはわかってる?  わかってなさそうな顔をして、額だけは掌でぎゅっと押さえてるのを見て、自然と笑みが零れた。何、あれ? なんていう可愛い生物なんですか? って、ひとりで呟きそうになる。  今日は、そうだな。少しブラついてから、ランチをして、映画を見て、面白かったかどうかカフェで感想言い合って、ディナーくらいならしてもいいかもしれない。  指で押された部分も、その頬と耳くらい真っ赤になっただろうか。でも、今、掌で隠しているから、俺の指の跡がそこに残っているのかわからないけど。その人は困ったように、そこを隠して難しい顔をしていた。  困れ、困れ。俺はあんたにこの数日振り回されっぱなしだったんだ。 「あ、花織さん、クリスマス、ホラー映画とか、どう?」 「!」  デート初回、ホラー映画にしがみつく、っていいかもな。初めてのデートはそのくらいの刺激がないとスキンシップも難しいだろ。 「はい、決定」  そして、数時間後、三十路上司は年下のデート相手に恐怖を堪えきれずしがみ付いたことの言い訳を必死にしていた。

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