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課長はレース派編 1 課長の異変
それはほんの出来心だったんだ。
俺の予想をいつでも斜め上に突き抜けるから、今回もそうなるだろうと予測しただけ。
本当に――。
「花織課長、すみません」
立ち上がり、声をかけると、課長席に座って静かに仕事をしていた要が顔を上げた。
「あ、あぁ」
そして、メガネを白い指でクイッと上げてから、うっすら赤みのある頬を隠すように慌てて俯く。
気がついたのは……昼くらい、だった。
「どうかしたか? 庄司」
「営業事業所からなんですけど」
「うん?」
ふと、肩が触れた時に、あれ? って気がついたんだ。
昼食終わりにオフィスに戻ってきた時に。ちょっとだけ肩が触れて、そしたら要がハッとした顔でこっちを見て、もうその時には頬を真っ赤にしていたから、ずっと気になっていた。けど、午後も要は別部署の課長や部長に声をかけられ、あれこれ相談事はされてるし、山下がピーピー鳴きながら要に何度も質問しにきてたから、声をかけるタイミングが全然なくて、今、やっと、だった。
もうそろそろ定時の終業時間。あと三十分くらい。俺は見積があと二件、明日の朝イチに先方に出しに行きたいから、片付けようと思ってるけど。残業は一時間、か、一時間半くらい、かな。
「ここ、なんですけど……」
チラリと、さりげなく周囲を伺って、誰もいないことを確認した。他のスタッフは外出しているし、内勤の女性スタッフはシステム管理のOJTの真っ最中でいない。会社のオフィス環境が一新されることになったから。リモートで仕事をする人もいる中での、業務システム変更のためってやつ。俺ら営業職にはリモートなんてものはない。古臭いけど足で稼いでなんぼって部分もあるからさ。業務システム変更のOJTに全員で出席してたら電話応対がままならなくなるから、俺たち営業マンはまた後日それを受けることになっていた。
だから今はオフィスに俺と要だけ。
仕事中だから俺は要を課長として呼ぶし、要も俺に部下として接する……んだけど。
(なぁ、体調。平気か?)
そう耳元で小さく尋ねた。
気になったんだ。昼に肩が触れた時、たしかに熱い気がしたから。
「……ぇ?」
熱でもあるのかなって。ほら、微かに頬も赤みが。けど昨夜も朝も普通だった。今朝は各部署の課長職だけが集まるミーティングが朝からあったから、俺より早くうちを出たけど、その時も普通だった……あ、いや、そうでもなかったかな。少し寝坊して慌ててたせいだと思ってたけど、少しおかしかったかもしれないと今気がついた。
だから、これは恋人として、耳元でそっと話しかけた。
「あ」
そして、問われて、更に頬が赤くなっていく。
これは恋人としての顔の要。
普段はもっとキリリとして、女性スタッフも見惚れるくらい。男性社員の中ではあんなふうに仕事のできる男になりたいと憧れられたりもする。そんな花織課長が恋人の前でだけ見せる甘くて柔らかい表情。
「こ、れは……」
今日は特に遅くまでいなくてもいなくて平気なはず。そもそもうちの課は業務改善が優秀な課長のおかげで進んでるから、営業職にも関わらず、残業はあんまりすることがない課だから。
「体調、そぐわないようだったら、大丈夫ですよ。俺があとやっておきますから」
「ぁ……」
ここでまた切り替えて、今度は職場の人間として接する。仕事上、上司を気遣う部下として。
要は俯き、唇をキュッと噛み締めた。
真面目な人だからさ。部下に心配かけて申し訳ないって思ったんだろ? 俺限定でなら、そんなの気にしなくていいし、俺限定でなら、むしろ心配かけて構わないんだ。そんな気持ちもあって部下の顔をしてみせたんだけど。
今日はこのまま。
「違うんだ」
「え?」
違う? 何が? 熱あるだろ?
「今日は……つの……日、だから」
「ツノ?」
角? 鹿とか山羊とか?
「パンツ」
「……は?」
「パン、ツの、日、だから」
「……」
「その、パンツ……履いて、て」
「……」
「ちょっと、その……」
そう言って、白く華奢な指が自身のスラックスの前にそっと触れた。触れて、更に真っ赤になった要がチラリとこっちを……。
「と、途中からは忘れたんだ。身に付けてるから、肌に馴染んで。でも、さっき、お昼に高雄と肩が触れてしまったら、その意識してしまって。意識したらなんだか急に、そのサワサワした感じを感じてしまって」
「……」
「そ、そしたら、もう、なんだかサワサワがとても」
サワサワって……。
「サワサワして」
サワサワって、何。
「だ、から、サワサワなだけで……体調、不良ではない、から、平気だ」
「……」
「平熱、だから。気にしないで、くれ、そ、れで営業事業所がどうか、し、た、高雄? あ、あのっ」
「いーから」
どうかした、じゃねぇよ。どうかするっつうの。
なんなんだ。
体調不良じゃないから、平熱だから、気にしないでくれと律儀に答える真面目課長のくせに、なんだ。
「ちょ、高雄、庄司っ、あの、トイレに用事はっ、腹痛等はない、からっ」
そこはクソ真面目に答えるくせに。
トイレに急いで連れ込んで、一番奥の個室に二人で入った。せっまい個室、いつ誰が入ってくるかもわからない職場トイレの。
「あっ……の」
個室に、要の声が響く。
普段は凛とした声が、柔らかく響く。
「っ」
息を呑む音すら、よく聞こえる。
「ここ、職場、なのに……まだ見ちゃ」
「……」
「だ……め」
吐息が震えるのすら。
「……ぁ、見ちゃ、や」
俺の頭の血管が切れる音すら。
「うちに帰ったら、ちゃんと見て……くれ。高雄の好きな……レースの、やつ……だから」
ほら、今。
「高雄」
パーンって、聞こえた気がした。
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