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第20話 年上の人

 目的地の湖は車で山道を二時間ほど走らせたところにある。夏はその近くでバーベキューとか渓流釣りを楽しむ観光客がいたりするけど、でも、真冬の山には誰も用事はないらしく、クリスマスなのに人がひとりもいなかった。 「うわぁ……すごい、湖だ……」  そりゃそうだ。湖に来たんだから。当たり前のことを言っているだけなのに、なんでこの人が言うとつまらないと思わないんだろう。  あんたといると俺は疑問ばかりが次から次へと出てきて忙しない。そして、その疑問の答えは全部ひとつの言葉へと繋がっている。 「車酔いは?」 「ここの空気が澄んでるから、大丈夫だ」  そう言って、薄い胸板をいっぱいに膨らませて、マイナスイオンをたっぷり含んだ空気を吸い込んだ。 「っぷ、はぁぁ」  そんなこの人を見て思わず吹き出した。なんで深呼吸が「ぷはぁ」なんだよ。それ、水面から出てきた時とかだろうが。 「花織さん」  柵から少しだけ身体を前へと倒し、湖の水面は何も見えないはずなのに楽しそうに覗き込んでいた。真冬の湖なんて誰も近寄らないよな。すげぇ寒い。覗き込んでいる花織さんの肩も少し震えているように見えた。剥き出しの首筋は白いせいで尚更寒そうに見える。  ちょうどよかった。今なら、あのストールはきっと何より喜ばれるだろ。  名前を呼ぶと素直に振り返り、手招くと頬をほんのり染める。オフィスの中で見る姿とも、昨日まで俺にだけ見せたのとも違う。世界でふたりっきりみたいに思える。誰もいない森林の中、冬の深い緑の中で見るこの人に息をするのを忘れそうだ。透けそうなほど白い肌にゾクッとした。 「寒いだろ」  そんな人が一歩ずつゆっくりと近づいてくる。 「……どうした? 庄司」  これがついさっき、吐きそうだっつって大騒ぎしていた奴と同一人物とは思えないほど、神秘的な存在感。 「これ、あんたにクリスマスプレゼント」 「……え?」 「ストール。あんた、首んとこ無防備すぎ。風邪引くぞ」 「……あの」 「開けてみろよ」  戸惑っているから、リボンの端を持って、俺が解いた。花織さんが、この森と同じ色をした緑色のストールに目を輝かす。  カシミヤで肌触りも良いから、これならあんたの、キスマークがすぐに残る繊細で白い肌にも心地良いだろ。 「これ、高いんじゃないのか? 触り心地がっ」 「いいから」  クリスマスプレゼントを突っ返そうとすんなよな。ぐいっと細く白い首に強引に巻きつけると、一瞬目を見開いて、でも、すぐに目を伏せて、昨日寒さで赤くなった鼻先をストールの中に隠してしまう。とても気持ち良い毛布に甘えているような仕草に、また、こみ上げてきた。抱き締めたいって衝動が。 「ありがとう。大事にする」  わかってんのか? そんなに嬉しそうな顔をしたりして、気軽に「大事にする」なんて言ったりして。俺が今何を堪えてるのか、俺が大事にしてるのはあんただ、とか、わかってないだろ。どんだけ俺が我慢してんのかなんて、考えたこともないだろ。 「これ、車酔いに効くツボ」  触りたいって、疼くんだ。デートを繰り返して、恋愛経験なんてない超初心者のあんたがビビらないように、身体だけとか呆れるような勘違いをしないように、丁寧に、面倒なほどゆっくりと進めてんのに。 「!」  指の付け根、そこが車酔いに効くと前に聞いたことがある。俺が乗り物酔いを全くしないから効くのかどうかわからないが、病は気からっていうだろ。そこを押したら平気って思えて気分も良くなるかもしれない。 「どう?」 「……」  なんて。ツボは本当にあるらしいけど、それを押したのは俺が触れたいからなだけ。俺が選んだカシミアのストールを首に巻いて、すげぇ嬉しそうな顔をするあんたのことをたまらなく抱きしめたくなった自分を宥めるため。  抱き締めたら、もうたぶん止まらない気がするから。デート三回目でキスして押し倒したら、あんたにとっては早いだろ? きっとまた呆れるような心配をして、自分のことは遊びなんだとか心配するだろうが。  んなわけねぇのに。ゲイでもないのに、こんな堪えられないくらいに触れたくて、触れたら止まらなくて、キスしたいと思うのなんて、どう考えたって「遊び」じゃねぇだろ。  ゲイじゃないのに男相手に遊びでセックスしたりしない。 「もう、そろそろ、帰るか」 「……え?」  本当はもう少しドライブしようと思っていた。ここから三十分くらい車で奥へ行けば、山頂の峰をずっと車で走ることのできる道路がある。信号もなくただ真っ直ぐ進めて、しかも峰になってるからまるで空を車で飛んでいるみたいな気がしてくる。  そこに連れていったら喜びそうだなって思ったけど、無理そうだ。また車に乗ったら酔うかもしれない。それに俺が問題だ。 「降りるぞ、山、どこまで送る? 駅? 家?」  家、だと、送り狼なんてこともありえるかもしれない。だから、駅までって答えろよ。 「え? へ、平気だっ! まだ、ドライブ」 「無理すんなって。乗り物苦手なくせに」  っていうか、俺がこれ以上無理できそうにないんだよ。 「平気!」 「……」  案外頑固なんだよな。キリッと眉を吊り上げて、唇を噛み締めて、断固として拒否するって表情で宣言している。そんな顔、数週間前に職場で見たことがあるのに、今、同じ表情に思えない。胸んところが騒ぎ出すから、だから、本当にあんたのことが―― 「寒いだろ。さっきだって、震え……て」 「っ」  白い肌、頬に薄っすらと差し込む桜色の上を大粒の涙が転がり落ちた。 「は? ちょっ」 「……なんで?」  なんで? なんでって訊きたいのはこっちだっつうの。なんで、いきなり泣き出すんだ。大粒の涙は頬から顎を伝い、緑色のストールへと染み込んで、そこだけ、粒の大きさにもっと色味を深くする。 「庄司が何を考えてるのかわからない。なんで、そんなに早く帰らせようとするんだ。デート、つまらないんだろう。私みたいな真面目な男といたって。というよりも」 「……」  俺たちしかいない湖に、この人の澄んだ低い声が響いて、世界が震えた気がした。森の空気に、静かな湖畔に響いて、俺を締め付ける。 「やっぱり、俺が男だかっ、…………っ、ン」  なんなんだよ。あんたはどうして、こう、俺の予想外なことばっか考えてるんだよ。なんで、俺を驚かせて、心臓鷲掴みにすんだよ。人が我慢して堪えてるとこを今みたいにぶっ刺して壊して、全部引っ張り出しやがって。 「っン、んんんっ」 「っ、んだよ」  齧り付くようにキスしてた。プレゼントしたストールを無造作に掴んで引っ張って、引き寄せて、恋愛をしたことがない、生真面目で不器用で、仕事しかできない隙だらけの年上の唇に強引にキスしてた。力任せのキスは、初めてを奪うにしては強すぎる。それでも止められない。そのくらい俺は。あんたのことが。 「ったく、あんたなぁ」  唇を離すのすら苦労する。したくて、したくてたまらなかったから。 「キス……」 「は?」 「庄司にキス、されて、しまった」 「……」  そう呟く年上の人は、俺が初めてこんなに緊張しながら手渡したクリスマスプレゼントを大事にすると笑った時以上に嬉しそうに笑って、頬を染めていた。

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