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第31話 俺の、恋人

 要が男と笑っていた。相手は同じ歳くらいなのかもしれない。ベージュのロングコートを着て、皮の手袋をして、大人の男。それが要の横で朗らかに笑っていた。  俺はそれを見て、眩暈がした。ぐらっと身体が大きく傾いて、そのまま倒れるかもしれないって思うほど、内側が動揺してる。 「……いえ」  要の低いけれど柔らかい声がそこだけ聞き取れた。ただ道を尋ねられただけらしい。それでも、そんなことでさえ、胸の辺りがざわつくなんて。  深緑のストールで隠れぎみの口元はふわりと笑っていて、眼鏡越しでも滲み出るおおらかな雰囲気なんて、デスクにいる花織課長でも、俺の前にいる要でもなくて、なんか――  そんな俺が少し離れたところにいるなんて知りもしない要が白く細い指先でどこかを指し示す。男はその指先を追いかけて、何かを話してから一礼して真っ直ぐ示された方向へ向けて歩き始めた。  本当に、ただの道案内。ただそれだけ。 「高雄!」  何かに引き寄せられたみたいに要が自然とこっちへ顔を向けて、俺を見つけて、パッと表情を輝かせる。すげぇ笑顔、すげぇ、楽しそう。 「おかえり、寒かっただろ」 「……十一時っつってなかった?」 「あぁ、早く帰ってきたんだ。少し急げば、特別快速に乗れて、しかも乗り継ぎがスムーズで一時間くらい早く帰れそうだったから、急いで乗り込んだ」  すっげぇ、嬉しそう。 「俺が要に合わせて、十一時にここに来たらどうすんの?」  駅前で待ち合わせて、今夜はこのまま俺の部屋に泊まっていけばいいって、帰省の前に話してたんだ。そしたら着替えの必要がないから。俺が要の部屋に泊まると、服のサイズが小さすぎて着替えがない。俺の部屋に泊まれば、要はサイズは合わないけれど、入らないのではなく大きくてブカブカしているだけの服を着ればいいから。  駅で合流できて、そのまま自然と要の足が駅から離れ、俺のアパートのある駅出入り口へと向かう。 「待ってる。それより、酒臭いぞ」 「飲んできたから」  そうか、って呟いて、自然と歩いているこの人にアルコールよりも酔っ払いそう。 「今、ナンパされてた?」  だから、つい、言わなくてもいいガキ臭い独占欲が顔を出した。 「? ナンパ? 俺がか? 高雄ならまだしも、俺は……って、まさか、もしかして、今、道を訊かれたのを?」  でも、もう声にしてしまった言葉は取り消せないから、アホくさい独占欲は見なかったことにしてもらうわけにもいかない。  要は一瞬目を丸くして、それから大きな声を出して笑った。営業課の連中が見たら、それこそ目を丸くして驚くくらいに花織課長からはかけ離れてる笑い声。なんか、すげぇはしゃいでる。どうしたのってくらい。 「わかってるよ。ただ、なんとなく、あんた、ガードが硬いんだか緩んだか」  つまりは単純に独り占めしたいから、他所からちょっかいだろうと道案内だろうと、この人に誰かが触れることがイヤなだけ。 「ナンパなんて、そんなの一度だってされたことがない」 「……」 「それに! 相手は同性じゃないか。なんで、三十の男を同じ男がナンパするんだ」  隙だらけのくせに。あんたは全然わかってない。男でも男を落とせるほど魅了的なんだって、少しは自覚してもらいたい。実際、ゲイじゃない俺はずぼっと落っこちたんだから。 「そっちのほうが心配だ」 「は?」 「高雄はカッコいいから。飲み会に行っていたって訊いて、ちょっと心配になる」  チラッとこっちを見られて、さっきとは違う動揺が身体の内側で起こった。ざわついて、歩く足が速まりそう。 「同級生の美人に連絡先を訊かれた」 「え!」 「だから、断った」  ホント、全然わかってねぇ。ぐいっと引っ張って、物陰の中にこの人を連れ込む。 「いるからって言った」 「!」 「あんたがいるからって、言って、教えなかった」  うちのアパートまではあと歩いて数分。でも、その数分間のおあずけすらできないくらい、内側で暴れてる。  閉じ込めるように抱き締めて、さらうように唇を奪って、この人の舌先を吸って、口の中を舌でまさぐる。俺の舌がアルコールで熱いのか? それとも要が駅で俺を待っている間に身体が冷え切った? 俺の舌は熱くて、要の口の中は冷たくて、二つの違う体温が混ざり合って、深いキスのおかげで同じくらいになっていく。熱と冷たさが重なり合って、ひとつになっていく感じ。 「ン……高雄……」 「寒くねぇ?」 「ん」  隙だらけのあんたはすぐに風邪を引きそうだから。 「寒い」  知ってた? 風邪はもちろん引いて欲しくないけど、もしも引いたら、看病する気満々だから。それと、連絡先を教えてくれって言ってきた美人同級生はきっと俺に好意を持っているだろうけど、俺はあんたのことしか見えてないから。 「寒いから、早く、あったまりたい」  こんなガキくさい独占欲も、そんなことを言われて、瞬間湯沸かし器みたいに熱くなるのも、本当に、前の俺にはありえないことだから。 「あっ! あぁぁぁっン、あン」 「あったまった? 要」  浴室のタイルを握り締めようと力を込める指先が白くなっていた。 「俺は、すげぇ、あったかい」 「あぁぁぁっ」  深くずぶりと突き入れると背中を折れそうなほど反らせて、俺に頭をこすり付けてくる。気持ち良さそうな顔をしながら、声と表情だけでなく、要の粘膜にしがみつかれて奥歯が力を込めて堪えてた。  持ってかれそうなほど気持ちイイ。このまま、なんか俺のほうが根こそぎ奪われそう。 「高雄……」 「な、に?」  俺の名前を呼ぶ時、あんたの身体は必ずきゅんと俺を締め付ける。 「さっきのヤキモチか?」 「は?」  人のペニスを奥深くに咥え込みながらこの人はいきなり何言い出すんだ。 「ナンパされてたのかって、あれは、あっ! ンっ、そこっ」 「……そうだよ」  ガキくさい独占欲だ。 「そ、うか」  背中をくの字に反らせて、小さく引き締まった白い尻たぶの間を俺に割り開かれて、奥まで貫かれながら、細くて白い指先が背後にいる俺に触れる。頭をこすり付けて甘えるみたいにしながら、ふわりと笑われて、ゾクッとした。 「……嬉しい」  そう言って年上の人が見せてくれた笑顔はどこか子どもみたいで、俺の呆れるほど小さな心を抱き締めてくれた。花織課長じゃなくて、年上のくせに可愛い要とも違って、なんか、ただ恋人だった。 ――あ、もしかして結婚してる?  ふと、さっきの質問が頭をよぎって、その次に自然とこの人を抱き締める腕に力がこもっていた。

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