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第36話 眼鏡スイッチオン

「あれ? 課長、眼鏡に戻ってる……」  部屋に戻って早々、出迎えるような位置にデスクがある荒井さんが要を見てそう呟いた。相手があの、鬼の課長だってことも忘れて、いつもの眼鏡課長になってしまったことを残念がっている。  要は「今、何かを誤魔化しています」って全身で訴えながら、喉奥で何かが詰まったような相槌を打つのが精一杯。  まぁ……素のこの人には無理だろ。今さっきまで、キンキンに冷え切ったトイレで肌も体内も火照って汗ばむくらいに立ちバックで、声殺しながら激しいセックスしてたんだから、それをしれっとこの人が器用に誤魔化せるとは思えない。 「何かあったんですか?」  荒井さんには驚愕だったのかもな。眼鏡なしの要の美形っぷりも、そんな要をなんでかいきなり部屋から連れ出した俺にも、そして、帰ってきたらなんとなく赤い目をした要が眼鏡をしていることにも。いつも以上にグイグイと声をかけていた。だから、横から口を挟もうとした。 「コンタクトが合わなかったんだ。まだ慣れていなくて、外したいが外せなくて、会議も入っていたから、終わったら庄司にちょっと見てもらおうと思ってたんだ。それに仕事、新規の件もあったからな」 「そうなんですかぁ」  びっくりした。フォローしようと思って、口を挟みかけたところで要が自分からちゃんと言い訳していた。コンタクトの取り外しだけにしてはかなり長い時間いなかったことも新規の仕事って上手く誤魔化してる。実際、俺は年末に新規の仕事も取ってきてて、去年の時点ではできる限りのことをしたけれど、年明け早々は忙しくなるだろうなって予想していた。 「あ、そうだ! 新規! 課長宛にお電話が来てました。新規のお客さんで……」 「新規? 私宛に?」  デスクにメモを置いてあると荒井さんが話すと、要はスッと自分の席に戻っていった。すげぇ冷静だったな、なんて思いながら、その後姿見つめて、少しだけさっき自分が見ていた背中を思い出す。トイレで、立ちバックで突かれる度にくねってた背中が、今は正しく真っ直ぐ伸びて、「花織課長」らしい綺麗な姿勢を保ってる。その差にクラッとする。 「あ、それで、庄司さんにもお客さんから電話が入ってました」 「あ、うん、ありがとう」  デスクには要のところに置かれているだろう同じ形式のメモ用紙に、会社名と時間、用件、電話をかけてきた相手の名前が書かれていた。やっぱり年末に仕事をくれた客先からだった。  追加注文か……しかも、すげぇ量。これ、今期の売り上げトップになれるかもって、ざっと簡単に頭の中で計算しながら、メモにある担当者に電話をかけた。  追加注文の手配、それから、自分が担当している客とのやりとり、新年の挨拶の電話をかけつつ、納期の管理。  年明け早々、仕事はびっしりになった。俺も午前中にデスクワークを片付け、工程管理と打ち合わせたり、品質のほうで小さなミーティングをしたりと、午後はほとんどデスクにはいなくて、社内を走り回っていた。  で、とりあえず大量に追加発注をかけ終えたところで、デスクに戻る前に、一服休憩をしよう自販機のある休憩所に寄っていた。  もしかしたら要から、今日、この後、どうするのかとか、メッセージとか入ってないかなって思ってみながらスマホを開く。 「……冬月」  でもそこには要からのメッセージは入ってなかった。ただ、この前、正月に帰った地元の飲み会からなんか連絡先があっちこっちで繋がったのか、ラインに知り合いかもって通知が来てて、そのうちのひとりが冬月だった。  繋がるつもりはないし、地元に用なんてあまりないから、ここで拒否しても問題ないだろ。恋人がいるって言ってあるんだし。 「あれ、庄司さんはまだ帰らないんですか?」 「あ、うん、お疲れ、荒井さん、今から帰り?」 「そうなんですよぅ」  そこへ、コートを着て、今まさに帰ろうとしていた荒井さんが休憩所を通りかかった。営業事務担当の彼女は時間きっかりに帰ることが多い。残業するとしたら棚卸の時くらいであとはほとんど定時。そんな彼女が今日は残業してた。不服をここで言いたくて、聞いて欲しそうに足を止めた。 「もう、皆帰った?」  さりげなく、部屋に誰が残ってるのか訊いてみたりして。今日は皆けっこう早く帰ろうとしている雰囲気だったから。仕事初日は会社自体が寒いし、体も休みモードから抜け切ってないから、できるだけ早く帰ってゆっくりしたいだろう。 「あ、はい、皆、帰っ……ぁ、課長は残ってました」 「そうなんだ」 「なんかずっと忙しそうでした」 「あの人はいつでも忙しいでしょ」 「あはは、そうかも。テキパキしてますもんね。でも、なんかいつもよりも忙しそうでしたよ。慌ててるっていうか、何度か書類落っことしてましたもん。たぶん、新規のお客さんのことで、なんかすっごい売り上げになりそうでしたよ」 「……へぇ」  それでか。営業アシスタントの彼女は要の仕事の手伝いをしていて遅くなったのか。にしても、それはそれで珍しいな。  花織課長は完璧。仕事でミスなんてひとつも起こさない。だから、書類だって落とさない。そんなイメージのある要はいつも自分の受け持った仕事はひとりで片付けていたのに、今回受け持った新規のは手伝ってもらったのか。 「そっか、お疲れ様」 「お疲れ様でーす」  けっこう、それってデカイ仕事だろ。 「……」  あの人、大丈夫か?  朝、バカな俺はサカって襲いかかったけど、外回りがないにしたって、身体には負担になるわけで。  どうしても止められそうになかった。あんな場所で見つかったらヤバいだろって理性よりも、本能のほうがでかくて、要のことが欲しいって暴れる欲求に突き動かされた。そのことを今更反省しつつ、まだひとりであの人が残って仕事をしているんなら手伝わないとって思ったんだ。 「花おっ、」 「うわぁぁっ、んぶっ!」  部屋に入ったと同時、部屋から出ていこうとした要が体当たりしてきて激突した。カシャン! って、軽い音を立てて、要の眼鏡が吹っ飛ぶほどの衝撃。 「わりぃ! 大丈夫だったか?」 「ぁ…………へ、平気っ」  心臓がトクンって鳴った。 「あ、たか、じゃなくて、庄司、悪い。どこもぶつけなかったか?」  午前中はデスクで仕事してた。その間、この人も仕事を離れているけれど、俺からほぼ真正面のデスクで片付けていて、その淡々とこなしていく姿はすごかった。うちの会社の「要」として、営業課長になるだけのことはあるっつうかさ。  眼鏡して、キリッと視線を鋭くさせながら、自分の仕事を片付けつつ、部下たちの仕事の相談にも乗って、的確に指示飛ばして。厳しいし鬼なんだけど、でも、仕事がマジでできるからこそ、どんなに冷たく突っ返されても、この人のことを怖いと思っても、嫌いには誰もならない。 「俺は、平気」 「そうか、よかった」  そんな人がキスをするのに邪魔だからと眼鏡を外したりしたのも相当クルものがあったけど。 「あ! 悪い! 今から、ちょっと打ち合わせして、そのあと、別件で訪問しないといけないんだ!」 「あ、俺、何か手伝う?」 「平気だ。たか、庄司はデスクに俺、じゃなくて私が、えっと」  コンタクトを外した貴方は眼鏡をかけて、テキパキ仕事をこなして。今、ぶつかった拍子に吹っ飛んだ眼鏡に、ぶつかったのが俺ってことに、顔を真っ赤にしながら慌てふためいていて。 「書類に目を通しておいた。あのまま進めてくれ」  今、眼鏡をかけたら、魔法で変身したみたいに花織課長になってた。 「それじゃ、でかけてくる」 「……」 「あっ!」 「?」  慌てて、コートと鞄を掴んで走り去る要を見送ろうと思ったら、ピタッと足を止めて振り返る。 「あの、その……あとで、電話、する」  そして、しどろもどろでそんなことを言う上司は眼鏡スイッチがオンになっているにも関わらず、頬を真っ赤にした俺がぞっこんになってる恋人の顔をして、もう、なんか、色々クルものがありすぎて。 「マジ、ツボすぎて、つれぇ……」  ぼやきたくなるほどだった。

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