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第37話 スイッチ、オフ

「今、帰ってきたとこ?」 『あぁ、ついさっき、バタバタしてて、て……ぁ』  何してんだ? 電話の向こうで要が有言実行とばかりに何かをバタバタしている音が聞こえてきた。 「何?」  時計を見れば夜の十一時ほんの少し手前。今さっき帰ってきたって言ってたけど、それまで会社にいたのか? それとも客先で打ち合わせて? どっちにしても。 『寝るところだったか?』 「俺はどこのガキだよ」  夜の十一時前に就寝って、中学生かよ。  要は、俺がまだ寝ないことにホッとして、また何かをバタバタ音たてて、電話の向こうで動き回ってる。 「夕飯は?」 『これからだ。高雄は?』 「……食った」 『何食べたんだ?』 「……コンビニ弁当」  なんだっていい。自分で作るのは面倒だ。腹に溜まればなんだっていい。そんな夕飯だとしても、今、電話の向こうで帰ってきたばかりで全然落ち着かずに動き回っている要に話すのは躊躇われた。  だって、朝、無理させただろ?  そんな俺の胸のうち、目の前に本人がいない状況で要にわかるわけもなく。コンビニ弁当ばかりじゃ栄養が偏る。塩分のことだってあるんだ。まだ若いうちは平気でも、毎日それでは、体にも、経済的にもよくないからちゃんと自炊をするように、なんて年上の恋人を通り越して、母親みたいなことを言っている。 「要は? 夕飯、なに?」 『……コンビニのお弁当』 「っぷ、一緒じゃん」  悪かったな、って小さく拗ねた声が呟いてた。いつもはちゃんと自炊だってしている。ただ、今日は帰りが遅かったから、夕飯を作る時間がないだけで、って一生懸命に説明してくれてた。  あぁ、そんな感じがする。夕飯を作って、静かに食べる横顔がすげぇ浮かんでくる。 少し落ち着いたのか? 電話の向こうで聞こえていたバタバタ、バサバサ、ガサゴソって音が止んで、要の低いけれど柔らかい声だけが心地良く聞こえてきた。  座ったのかもしれない。要のことだからコンビニ弁当だろうが高級料亭のコース料理だろうが同じように正座してきちんと食いそうだ。そんな要は電話しながら夕飯とか食わないだろ。電話は邪魔かもしれない。 『……あ、まだ、寝ない?』 「あぁ」  そしたらかけ直す? な、わけないか。今から晩飯済ませて、風呂入って、そしたら寝ないと。朝がすげぇ苦手だから起きられない 『そしたら、もう少し、話せないか?』 「夕飯……食うんだろ?」 『その間だけ』 「……いいよ。俺は全然かまわない」  あんたのほうが大変だろ。 『よかった。眠くなったら遠慮なく言ってくれ』 「っぷ」 『なんで笑うんだ』  笑うだろ。何、その可愛い気遣い。っていうかさ。 「そっちこそ、大丈夫だった?」 『何が? 仕事のことか?』 「じゃなくて、その……朝、トイレ」 『うわあああああ!』 「なっ、何っ!」  いきなり電話から叫び声が聞こえてきて、鼓膜はびっくりするわ、見えてないから何かあったのかと慌てるわ。初めて、自室でこんなでかい声出したかもしれない。 『お茶、溢した』 「何してんの? っつうか、火傷は?」 『してない。ご飯がお茶漬けになるところだった』  あ、鬼の花織課長が冗談言ってる。これ、営業部の人間に暴露したら目玉飛び出して椅子から転がり落ちる奴とかいるんじゃねぇ? 『……平気だ』 「そ? ならいいけど」 『朝の、全然、大丈夫』  そっちの話に戻ってると思っていなくて、お茶漬け化をまぬがれた弁当のことだと思ってた俺は不意打ちを食らった。 『その、本来、課長である俺が言ってはならないのだけれど』 「……」 『き、き、き』  気持ちよかったし、そう小さく呟く声がすぐそこで鼓膜をくすぐる。要の声は女みたいに甲高いわけじゃない。低くて、しっかり男の声をしているのに、なんでこんなにくすぐったい気持ちになるんだろう 『それに、高雄とキスできた』  なんでこんなに愛しいって思うんだろう。 「なぁ、要」 『ん? んんん?』  食べてる最中だったのか。 「今度、要の作った飯食いたい」 『……味の保障はしないぞ』 「いいよ。砂糖と塩間違えても、全然」 『そんな間違いするか!』  だって、しそうなんだよ。眼鏡をして、キリッとした目元で瞬時に書類の山を片付けられる完璧な花織課長なら間違えないだろうけど、今、眼鏡をしてるのかどうかはわからないけど、課長スイッチをオフにした要ならそのくらい笑顔で間違えそう。 「なぁ、仕事、俺が補佐に入ろうか?」  課長であるあんたの補佐なんて、俺よりも長く営業でやってる人のほうが役に立つかもしれないけど、でも、たぶん、今月は俺の売り上げ上位だと思う。ひょっとしたら一位だってありえる。今日、追加発注かけた仕事があるから。 『……ありがとう。大丈夫だ』 「無理するなよ?」 『大丈夫』  もう一度、しっかりと告げる声は少し疲れている気配もしたけれど、でも、優しくて甘くて、隣で耳にしていたのなら、きっと抱き締めていたと思う。別に遠距離なわけじゃない。明日、仕事に行けば会えるし、冬休みの間、ずっと、ほぼ一緒にいた。それでも、今感じる、この距離をもどかしいと思った。 「要」 『何?』  こんなの初めてだった。 「明日、寝坊しないようにモーニングコールしてやろうか?」 『えっ?』  もっと一緒にいたいと、ふたりの間にあるものを全部取っ払って近くに行きたいと思ったのは。 「要、朝、弱いだろ?」  そんな低血圧な要を毎朝電話でなく手で揺り起こしてやるとかさ、そんなことを想像して胸の辺りが鼓膜と同じくらいくすぐったくなる。 『よ、宜しくお願いいたします』  朝、電話で起こしてもらうなんて、上司なんだ、してもらうわけにはいかないだろうって背筋を伸ばしそうな気がしたのに、電話の向こうにいるスイッチをオフにした要は甘えて寄りかかって、モーニングコールの要請を依頼していた。

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