39 / 140
第39話 課長と部下、その距離は
「昨日はゆっくり休めました?」
午前中、今年初の外回りでせわしなく動き回った後、昼過ぎに会社に戻ってきた。というか、出社した。営業課へ向かいながら、廊下で手前を歩く、良く知っている背中に遭遇する。出社し一発目に遭遇した会社の人間が要って、ラッキーだなって思いながら、そっと近づいた。いきなり声をかけたら飛び上がるかなって。
でも、ほんの少しの時間すらもったいないのか、書類に目を通しながら歩く細い背中は昨日一日を休養に費やしてもまだ残っている疲れのせいでいつもよりも少しだけ丸まっている気がする。
「あ、たか……庄司」
廊下じゃ、要って呼ぶわけにはいかなくて、親しい関係ってバレるわけにはいかなくて、花織課長って、敬語で話しかけないといけない。
「ちょ、おい、あんた、平気か?」
でも、声をかけられて振り返った要の顔色が真っ青で、ここが社内とか、廊下だとか、上司だとか一瞬でどうでもよくなった。
「平気だ。それよりも今週、監査が……」
「は? 監査? そんな予定」
「急だから、支度をしないと」
午前中は外回りだったせいでまだメールは見てないけど、最近、要がこんなにかかりっきりになっているのは新規のバカでかい商社しかない。
「おいっ! 要っ!」
真っ青だ。
「バカ、たか、庄司、ここは社内だぞ」
諭されて思わず舌打ちしてた。そのくらい、上司部下とかどうでも良くなるほど、要がしんどうそうだった。眉間の皺は厳しい雰囲気とは違う深さ。苦しそうで、見ているだけで、今、この人を引き止めようと腕を掴んでいる手が力を込めてしまう。
「……花織課長、ちゃんと寝ました?」
「寝た」
嘘だろ。寝てない。寝てるのなら、その真っ黒で綺麗な瞳の下瞼にあるクマはなんなんだよ。どうせ、急に入った監査の準備を家でしてたんだろ。
「飯は?」
「食べた」
監査は会社に対しての査定みたいなものだから、前準備が必要だ。相手に見せる書類の不備はないか、どういうところを顧客は気にするのかリサーチをして、向こうがこの会社になら任せたいと思うだろう信頼を得るための重要な機会。
新規の客の監査なら、尚更、準備はしっかりしないといけない。もちろん、相手側だってそんなのは充分理解しているから、事前に打ち合わせをしつつ、最低でも二、三週間の猶予はくれるはずだ。こんな数日後に監査に行きますなんて無茶苦茶な話、聞いたことがない。
「昨日のことじゃないですよ? 今朝と昼飯のこと」
「……食べた」
また、嘘だろ。眉間の皺が深くなった。
昨日は一日休んでいたはずだ。昼近くまで寝て、起きて、洗濯して、でも、その後、仕事をしてたのか? 朝、ゆっくりしてくれって俺がメッセージを送ってから一度も連絡がなかった。別に小うるさい女じゃあるまいし、返信がないからって文句を垂れるつもりはない。その返信を打つ間もこの人がゆっくりできたんだったら、それが俺にとっても一番良いって思ったんだ。
なのに、なんで、そんな真っ青なんだよ。真っ白な肌はほんの少し俺が突付いただけで綺麗なピンク色に染まるはずなのに、なんで、そんなに冷たい色してんだよ。触れたら、氷みたいに冷たそうな肌色。
「庄司、悪いが、まだ」
ここが社内じゃなかったら、絶対に――
「部下を垂らし込むのも上手なようで、さすが、花織新営業課長」
絶対に? 抱き締めてた? そんなことしてまた理性がぶっ飛んで? 要に無理をさせるかもしれない?
「新規相手に大変そうですな」
「あ……」
青白かった要の表情が一気に最悪レベルにまで下がる。俺たちの目の前には前の営業課長がいた。窓際に追いやられて、要のことはそりゃよく思ってなかっただろうが、今まで、新営業課長の功績に何も文句を言えずにいた奴が、今だ! って顔をして要に棘を刺す。
「美人新営業課長は、部下を取り込むのも上手なようだ」
「っ」
何、言ってんだ、この人。
「皆、影でコソコソ言ってますよ。あんな大きな商社が急にうちに大量発注なんてありえない。何かあったんじゃないかって」
「は? おい、あんた」
悔し紛れにおかしなことを言ってんじゃねぇぞって、言おうと口を開いた俺を、要の手がぐっと引っ張って強く制止する。元だろうがなんだろうが、上司なんだぞって、そんな口の訊き方はしてはならないって、眉を吊り上げて無言で止める。
「そんなことはしていません」
「どうだか。だって、向こうさんの社長、花織新営業課長の知り合いらしいじゃないですか!」
そこで、要の手が、俺を止めようと引っ張ってた手がものすごく力を込めた。
「向こうさんがうちの営業課長をご指名なんでしょ? 専属で担当してくれるのなら発注を増やしましょうって、言ってたらしいじゃないですか」
要の手が震えてる。
「うちをホストクラブかなんかと勘違いされてるようだ」
ニヤリといやらしく嫌味をたっぷり込めた笑顔を要に向けて突き刺して、楽しそうに「枕営業ありのホストクラブと」なんて暴言を吐きやがった。俺の怒りすら楽しそうに、元営業課長は意気揚々と足取りも軽く、自分の窓際のデスクへと歩いていく。
「……要」
「……」
「あの人が言ってたのって?」
新規の商社は年明けから取引を始めたばかり。何千万の売り上げが見込めるような大きな取引なら、双方慎重に、失敗のないようゆっくり商談を進めていくはずだ。それなのに、仕事始め早々から信じられないほどの速さで商談がまとまっていく。会社にしてみたら、不備も見当たらなさそうなこの仕事で、大量の発注がかかることに何を渋る必要があるのかってなるだろう。下手に慎重になりすぎて、相手に逃げられたくない。このご時世、仕事の争奪戦は激しさを増すばかり。
「別に、普通の商談だ」
でも、今のあんたは自分の顔、鏡で見たのか?
「悪かった、庄司」
「……何が?」
「その、さっきの彼の言い方、気分悪かっただろう?」
奥歯が痛い。力を込めすぎて、歯が軋む。嫌な感触に全身が、嫌悪から肌が栗立つ。
「あんたは何に謝ってんの?」
「だからっ、あんな、ホスト、とか」
「そこじゃねぇよ!」
廊下だっつってんのに、止まらなかった。
「庄司っ」
声を荒げることをどうにもできなかった。
「わかんねぇ?」
「だから、何をだっ、私は、別に何もやましいことは」
「……そこじゃねぇ」
喉奥が苦くて、辛くて、息を飲み込むのすら辛くなるから吐き出してしまう。
「俺、あんたの、なんなの?」
「……え?」
何一つ聞いてない。なぁ、顧客を垂らし込んだとか思ってねぇよ。あの元課長がほざいたことなんてどうだっていい。俺もほだされた阿呆のひとりだと思いたきゃ思えばいい。負け犬の遠吠えなんて耳にすら入らない。
でも、新規の顧客が要の知り合いなことを俺は知らなかった。あんなふうに陰口を言われるのは初めてじゃないんだろ? あの人と仲が良かったおっさんたちがグルになって、あんなふうに事あるごとにあんたのことを小さな棘で突付いてたんだろ? でも、あんたはそれを俺には愚痴らない。ひとりで抱えてた。
「俺は、要の」
恋人なんじゃねぇの? そう言うのさえ、邪魔された。花織課長に外線が入ってるってアナウンスが邪魔をして、教えようとする。目の前にいる人はお前の上司だぞって、そしてお前はただの平社員だろって、言われた気がした。
ともだちにシェアしよう!