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第40話 阿呆だ

 俺は何も知らなかった。話してもらえていなかった。そのことに苛立った。いや、要に頼られていない自分自身にもすげぇ、ムカついた。  午後いっぱい、要は課長としてずっと忙しそうにしていた。打ち合わせに呼ばれたり、パソコンで資料を作ったり。飯を食ったのかと心配することすら、今の要にとっては邪魔なことのように思えるほど、ずっと動き回っていて、今だって外出したっきり。営業がいまどこで何をしているのか一目瞭然でわかるホワイトボードには、要らしくない走り書きで「外出」とだけ書かれていた。 「課長、大丈夫かなぁ」  もう帰り支度を済ませた荒井さんがぽつりと呟いた。 「新規の顧客がかなり我儘みたいだね」  俺がそう言うと、んー、と不満そうに口をへの字にして、デスクに置いた自分の手をチラッと見た。 「それもそうなんですけどぉ、なんか」  何か言いたそうに伏せた視線の先で自分の指先をいじって躊躇ってる。そんな彼女の口に蓋をするように、俺の隣、そして、荒井さんの隣にいた営業の先輩がひとつ咳払いをした。まるで、口を慎みなさいって諭すような表情で、小さく会話の邪魔をされて、荒井さんが口を閉じてしまう。 「あんなのデマっすよ」  でも、その代わりに口を開いた奴がいた。俺の後輩で、いつも要に見積もりでダメだしを食らう、ちょっとどこか抜けていて、営業のくせに空気を読むのがかなり下手な山口が、今回も空気を読まず、荒井さんの言いたい言葉を口にした。 「こら、山口」 「あ、すんません、でも、ありえないっす」  俺にとっては先輩で、山口にしたら大先輩だろう営業からのお叱りにもめげず、続きを話してくれる。内容は大方、元営業課長が言っていたことと変わりなかった。要が色仕掛けで大手商社との商談を成立させたんじゃないかなんていう馬鹿げた噂話。 「だって、ありえなくないっすか? あんな怖い顔した人に色仕掛けとか無理ですって。美人っつったって男同士だし。それに」  一番厳しいダメ出しを毎回食らってる山口にはいまだに要は鬼課長なんだろう。いつだって、なんでこんなポカミスをするんだ、何回確認しても、レ点をつけてみたところで、ちゃんと目を通してないのなら確認とはいえないんだぞ! なんて、指摘じゃなく、叱られてるから。  でも、荒井さんは気がついてる。もしかしたらこの会社の人間は薄々気がついてる。要が眉間の皺を消して、少し微笑むだけで、その鬼みたいな印象は一瞬で消し飛ぶって。あの、綺麗な笑顔を向けられたら、いくら同性だって落ちるんじゃないだろうかって。  あんなでかい商談がそう簡単にまとまるなんてことはありえない。うちが赤字覚悟の低コストで提案したか、もしくは何か別のコネクションがあったのか。そう考える人間はきっとたくさんいるだろ。 「俺、見積もりのダメだし、すげぇ食らうからわかるんです」  要は美人だから、男だって、魔くらい差すかもしれないって、思う奴だって。違うってわかってるし、バカじゃねぇから、俺はそこまで阿呆じゃないから、そんな呆れるような疑念は持たない。でも、噂が立つってことは、そう思ってる人間が少なからず。 「すっげぇ真面目な人だから、色仕掛けで仕事なんて取らないっすよ」  いるって、ことだ。でも、それを山口がいとも簡単に否定した。 「だって、工程ひとつ飛ばしてるとかそっこうで見つけるくらい、この仕事、まだ就いて間もないのにわかってるんすよ? サービスとかするとすぐ見つけて怒るし。仕事なんだぞって」  山口が商品につける品質保証票をサービスにしようとしたら、要はそれも大事な仕事なんだぞとすぐに見積もり金額に入れ込むよう修正させた。この保証票はその品が安全で、基準をしっかり満たしていると証明する大事なものなんだ。それをタダにしてはならないって。 「サービスで少しでも他社との差を、なんてこと、花織課長はしないっすよ」  何度も何度も叱られ、見積もりをやり直しさせられ、でも、そうやって山口が獲得した顧客たち。数は少ないだろうが、でも、こいつはその顧客としっかりビジネスをしてる。要が、鬼の花織課長が山口に叩き込んだんだ。 「そうだよね」 「そうっすよ」  空気に色はついてない。でも、たしかにこの部屋の空気が暖かい色になった気がした。  俺はあんな噂に疑心暗鬼になるようなアホじゃないが、要のことをちゃんと理解してなかった大バカだ。 「あ、え? たか、庄司?」 「おかえり……もう誰もいねぇから、普通にしてれば?」  部屋に入ってくるなり、入り口に一番近い場所にある俺のデスクで、俺を見つけて、要が一歩下がるほど驚いて声を上げた。顔色は相変わらず最悪だけど、俺たちしかいないって、ふたりっきりの時の口調で話すと少しだけ緊張が解けた気がする。  そうだ、要はそういうところが不器用なんだって、俺はわかってたつもりになってた。 「お疲れ。何飲む? コーンポタージュ?」 「ぁ、いや……コーヒーがいい」 「……オッケー」  相当疲れてるんだろ。要はコーヒーがあまり得意じゃない。見た目、しっかりしてそうだからブラックコーヒーとか似合いそうなのに、好んで飲むのはミルクも砂糖もたっぷり入れたお子様でも飲めるようなコーヒー牛乳だ。でもそんな甘いのが飲みたくなるくらいに疲れてる。  コーヒーをあのすぐへそを曲げる自販機で買って戻ると、要が椅子の背もたれに身体を預け、重たい溜め息を吐いてた。眼鏡を外して疲れた目を休めるのか、眠たいのか、ぎゅっと目を閉じて、眉間に皺を刻む。 「要、コーヒー」 「あ、ありがと」 「熱いから気をつけろよ」 「……あぁ」  笑った顔も疲れてた。 「監査、大丈夫?」  要の席はこの課を全部見渡せるデスク。その背後にある壁に背を預けると、要が口元だけ力なく笑ってから、「どうだろな」と肩を竦めた。  監査の準備なんて到底間に合わない。それでもできる限りのことはしないといけないだろ? もし、監査で不備が見つかったりして、それが商談へ亀裂となって影響を及ぼしたりしたら、そう思って、今日は取引先の外注へ監査の予行練習を兼ねて出かけていた。監査となれば、うちがかかえている外注企業への見学だって入ってくる。そっちで問題があったら、うちとは無関係ってわけにはいかないから。ギリギリまでできる限りのことはしたい。  もしもおかしなコネクションで獲得できた仕事だとしたら、こんなに必死に頑張るわけがない。 「言わずにいたの、ごめん」  要はいつだって真面目だから「申し訳なかった」って謝るかと思った。でも、俺はその距離よりも近いところにいる。だから、そんな硬い侘びの言葉じゃなくて、親しい関係でしか言えないだろう三文字で謝られた。 「ダメだな。俺は……ひとりぼっちが長かったせいか、どうしても」  要の溜め息が甘い甘いコーヒーの中に落っこちていくようだった。猫舌だからまだいっこうにに飲めなくて、両手で持ったまま、じっとその手元を見つめてる。 「新規の商社の社長は俺の同級生なんだ。その、前に話しただろ?」  プールの授業でからかって、水着を奪われ、コンプレックスだった体を覗かれた。トラウマでもある相手が、今回の取引相手だった。

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