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第41話 あんた専用のコーヒー牛乳

「それって……」 「あぁ、トラウマの原因になった友人だ」  もとから毛の薄かったことを気にしていた要は、それを隠したかったのに、その友人は要の繊細な性格を無視し笑い者にした。それ以来、要は人との距離さえ開けるようになった。もうあんなふうに傷つかないために、最初から人との関わりを絶ってしまうのが一番だと、幼いながらに傷つき、思ったんだ。 「あんた、大丈夫なのか?」  要がふわりと力なく笑ってから首を横に振った。まだ、一口も飲めてないコーヒーの水面が少しだけ波立って零れそうだ。 「辛い」 「ならっ」 「でも、高雄に教えてもらったから」  あんたの口から辛いって言われて、思わず壁に寄りかかっていた俺は前のめりになった。要に噛み付くように近づくと、要もこっちへ振り返り、真っ黒なのにどこまでも澄んでいる瞳を真っ直ぐに向けてくれる。 「コンプレックスなんかじゃない。気にすることはないって」 「……」 「だから、俺も気にしない」  何をコンプレックスに思うか、何を自分の欠点だと思うかなんて人それぞれだ。悩みなんて、自分にとってはとてつもなくでかくても他人にしてみたら、米粒ほどのことかもしれない。俺にとってはたいしたことがなくても、この人にとってはすげぇ深刻なことだった。それこそ、部下である俺の前で、あの厳しい花織課長が涙するほどの。 「話してなかったのは悪かった。もうどこかクセになってるんだ。ずっと、なんでも、全部ひとりで抱え込んでたから」  仕事でも私生活でも、ずっとひとりだったから、ひとりでなんでもこなすクセがついていた。 「だから、高雄が隣にいることにいつもドキドキしてる」 「……は?」  急にそんな顔すんなよ。さっきまで真っ青だったくせに、甘い甘いコーヒー牛乳はまだ飲めてもないくせに、その砂糖とミルクの甘い香りが要の鼻先に触れて、冷たく固まった気持ちをほぐして溶かした? 頬を淡いピンク色に染めて、ふわっと微笑みながらこっちを見るとかさ、それ、反則だ。 「お正月もそうだった。いつもひとりだった部屋に君がいることがたまに不思議でドキドキする。今だってそう」  今? だから、そんなに瞳を綺麗に輝かせてるのか? 「悩みを誰かに相談するなんてこと、俺の人生で初めてだよ」 「!」 「この身体のことだってそうだが、全部ひとりで悩んでたから。高雄に話すとすごく楽になる。この、ぱいぱんのこともそうだが、全部、ひとりじゃなく高雄に話すだけで本当に気持ちが軽くなるんだ」  この人、丸ごと反則だろ。 「あ、でも、それだとお前は」 「あんたなぁっ!」 「高雄?」  何、きょとん、ってしてんだよ。 「顔、赤いぞ? どうしたんだ?」 「あんたがぱいぱんとか職場でふっつうに言うからだろ」 「! こ、ここ、これはっ!」  俺といて、思わずいつもの背筋に針金通したみたいにいつでもどこでも正しい真っ直ぐさを持つ花織課長でいられなかった? ふわりとしていて、ふにゃふにゃで、まるで膝の上で昼寝をしている猫みたいに柔らかな要に戻ってた?  なんか、もうどうしようもなく可愛くて、抱き締めたくて、でもめんどくせぇ位に猫舌なこの人はまだコーヒーが並々入ったままの缶を手に握ってて、抱き締めて、そのスーツに溢すわけにはいかないから、小さな頭だけを引き寄せて、そのてっぺんの艶々した黒髪にだけ口付ける。  俺の前でだけ甘える愛しい人が少しだけ、その頭をこっちに傾けて、重い溜め息じゃなく、静かにゆっくりと深呼吸をした。 「すごくストレスだ」 「……要?」 「友人と商談をするのはすごく辛い」 「だから、俺が補佐を」 「いや、いい」  腕の中に抱え込んだ小さな頭をわずかに横に振る。 「なんで」 「ひとりで抱え込むとかじゃなく。これは、なんだろう……うーん」 「要?」 「君にたくさんのことを教わったから、それを証明してみせたい」  俺は何もあんたに教えてなんていない。教わったのは俺のほうだろ。 「自分のことが大嫌いだった」 「……」 「毛のことだけじゃなく、もう自分の何もかもが好きじゃなかった。だから人にだって好かれないのは当たり前だと思っていた。でも、高雄が好きになってくれた」  他にも色々教わったんだ。猫舌でも熱くなく食べる方法もそうだし、お酒を飲んでしまったら吐いてしまうのが一番だということも。他にも色々。だから、陰口も、今抱えている仕事が辛くても大丈夫。 「要」 「陰口も気にならない。以前だったらきっとすごく気にしてたと思う」  他人にどう見られるのか、どう思われるのか、それがすごく狭い了見の中で辿り着いた結果が、人嫌いだったのだから。どう思われるのかを気にするのじゃなくて、何も思われないほど、人を自分から遠ざければいいと。 「でも、今は平気だ。高雄がいてくれるから」 「俺は」 「本当にありがとう。大丈夫だ。俺は、まだ、頑張れる」  この商談をしっかりまとめ上げて成立させる。それができたら、きっと本当に今の自分に自信が持てると思う。そう言って、腕の中にあった要の頭が揺れて、黒いけれどどこか透き通っている瞳が真っ直ぐ俺を見た。  いつでも、この人の瞳は俺を真っ直ぐ捕まえる。 「……要」 「すごいな、高雄は」 「は?」 「すごくヘトヘトだったんだ。もう疲れてきつかったんだが、コーヒー牛乳飲むより、高雄にぎゅっとしてもらうほうがよっぽど疲れが吹き飛んだ」  めちゃくちゃ笑いながらそんなことを言うから、もう可愛くて、嬉しくて、思わず吹き出しながら、俺ってあんたのコーヒー牛乳かよって言ったんだ。 「いいよ。あんた専用のコーヒー牛乳な」  そんなわけわかんねぇ子どもみたいなことを言って、ふたりで笑った。  その、翌日、要に深い傷を負わせた、でかい商社の社長をしているっていう同級生が取り巻きみたいな部下を数人連れて、うちの会社にやってきた。監査という名の重箱突付きをするためにやって来た社長が、ニヤリとクソイジワルそうな笑みを浮かべていた。  ものすごく厳しい監査だった。  相手はバカでかい商社で、うちは普通の中小企業。その規模も力も、一目瞭然の差があった。来社の約束の時間よりも早く来るなんて非常識にもほどがある。でも、そのご一行様の背後に何千万の売り上げになるだろう仕事があると思うと誰もが笑顔で出迎えるしかない。  監査は準備期間をほとんど設けていないくせに、かなり厳しいレベルで審査された。そりゃそうだ。大きな取引になるのだから、向こうだってそこは厳しく見るだろ。でも、これだけ事細かに審査するのなら、この数日で、年明け早々のタイミングでなんてありえない。 「大丈夫かな、花織課長」  荒井さんが不安のあまりぽつりと口にするほど、要はしんどうだった。途中、何か書類に不備があったのか慌ててデスクに戻ってきた要の横顔は明らかにきつそうで、眉間の皺は今までで一番深く刻み付けられていた。  呼吸するのすら大変そうだった。 「あ、庄司さん」  荒井さんが俺を呼ぶ。内線がかかってきたんだと思った。こんな要が大変そうな時に俺は自分の仕事なんて全然集中してなくて、この電話も邪魔に思えて仕方なかった。 「あの、な、なんか、お客さんが応接に庄司さんを呼んでます。えっと、今、花織課長が応対しているお客さん」 「は?」 「至急、来て欲しいって」  なんだろう、ものすごくイヤな予感しかしなかった。

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