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第42話 踏みつけられない

 要が担当している新規のくせに初っ端からでかい仕事を回してくれる大手商社、そこの社長は要と知り合いで、でも、俺は一切面識がない。知り合いのはずなのに、まるで要をいたぶるように無理なスケジュールを組んでくるような奴が今度は名指しで俺を呼びつけてきた。  そんなのイヤな予感しかしねぇだろ。 「失礼します」  応接に入ると、まるで王様のように男がひとり座っていた。要はその従者かのように部屋で立たされていて、息苦しそうに眉をひそめ、俺が入ってくるのを見て、表情を大きく歪めた。 「へぇ、写真とずいぶん印象が違うな」  写真? 今、この男は写真って。 「お前、こういうのが好みなのか?」  お前って、今、要のことをそう呼んだのか? なんだ、これ、監査じゃねぇのかよ。要が営業全員に送った監査のスケジュールじゃあ、午後は下請けの外注含めた工場見学があるって、そう言ってたよな? それに五名来社ってなってたぞ。 「庄司、手違いだ。帰れ」  でも応接にはしんどそうな顔をした要と、それを愉快に眺めるムカつく顔の男がいる。上品な男ぶって髪を後ろに流し、少し彫りの深い整った顔立ちは女に好まれるだろう。でも、俺は嫌いだ。こういう笑い方をする奴はムカつく。  だから、俺は帰らねぇ。あんたは俺の上司だけど、向こうが仕事する気ねぇんだったら、仕事とは関係ない話をしたくて呼びつけたんだったら、この場は仕事外だ。だから上司もクソもない。今、ここであんたは俺の上司じゃない。  こいつが要の同級生。要の恥ずかしい、欠点と思っていた部分を笑って、冷やかして、トラウマを作った奴。  ふてぶてしい笑顔を見せるこんな奴が要の親友だったのか? って疑うほど、嫌味なことしか言えなさそうな口に、人の欠点だけを見つけたがる視線を持った男だった。 「おいおい、彼を呼んだのはお前じゃないだろう?」 「帰れ! 庄司!」  は? 帰るわけねぇじゃん。あんたのそんな顔見て帰れると思うか? 「もっと可愛い年下、みたいなタイプかと思ったよ。でも実物は全然違うんだな。そっか、要はこういうのがタイプなんだな。写真と全然違う」 「庄司!」  ニヤリと、ムカつく笑みを浮かべた男が、俺を帰らせようとする要を邪魔して、ガラステーブルの上に、花びらでも落っことすように見せた写真。そこには―― 「よく撮れてるだろう?」 「……」 「庄司! いいから、帰れ!」  そこには俺と要が写っていた。昨日の営業の部屋、要はこの男の無理難題に必死に答えて、ヘトヘトで、俺はそんな要が外回りから返ってくるのを待っていた。写真の中の要は猫舌のせいでいっこうに飲めないミルク砂糖、どっちもたっぷり入ったコーヒー牛乳を持っていて、小さな頭を俺へと預けて目を瞑っている。  俺はそんなこの人の頭のてっぺんに愛しそうに口づけしていた。 「社内で熱愛、大昔のお前からは想像もできないなぁ」  どっからどう見ても、「恋人同士」だった。 「まさか、お前がこんな大胆なことをするタイプだとは思わなかったよ。この後、どうしたんだ? 写真を撮ってくれた奴はこの後ビビってしまって、続きを知らないんだ。残念。もっと衝撃的な写真のほうがゆするネタには使えるのに」  はぁ、とわざとらしい溜め息を男がついた瞬間、背中の神経が焼け爛れた気がした。 「男同士、社内でいかがわしい行為に耽る……なんて、最高に楽しいだろ?」 「要、なんなんだよ、これ」 「おや、上司に向かって呼び捨てかぁ。まぁ、そうだよな。恋人同士だもんな」 「要!」  俯いて肩を震わせ、何かを堪えていた要が俺の声に反応して、男のそばを離れようとした。 「おい、誰が動いていいって言った?」  でも、男は要の足元に写真を、今度は同じ写真を縮小したものを数十枚ばら撒いた。要は自分の足元に散らばる全く同じ写真たちに声も出せず、動くこともできない。全神経が焼き切れそうなくらいムカつく男の言われるままに要が止まった。 「こいつと俺は同級生でね。親友だったんだ。なんでも俺に話してくれてた。こいつのことで知らないことなんてなかったのに」  おい、要、そんな写真踏みつけろよ。 「なのに! 俺に隠し事をしてたんだ! 最低だろ? 親友だと思ってたのに、秘密にしてた! ショックだったよ。ものすごくショックだったんだ。なんでも知ってたのに、まさかそんなことありえない」  脅された? 部下で、同性で、年下の俺と職場でイチャついてるところを写真に撮られて、脅されて、動けなくなった。この写真をばら撒かれたくなかったら、自分の言う事を聞けと言われた? 「でも、それで人嫌いになってくれたから、まぁ、結果的にはよかった……んだけど! まさか、大人になった要がこんな変わってしまってるなんて! 最低だよ。最悪だ!」  そんなの全部踏みつけろ。 「要は綺麗なままでいなくちゃいけないのに。真っ白で、どこも穢れてない。誰も触れちゃならない存在なのに! 正月に駅で見かけたんだよ。真っ黒に汚れた要を。誰とも話しちゃいけない存在なのに、俺を見つけて声をかけてきたんだ」  そんな気持ちの悪い、頭だけじゃなく足の先まで朽ちたクソ野郎の言うことなんて聞くな。早く、こっちへ―― 「でも、大丈夫、俺が浄化してあげるから」 「……め」 「要も私も、君とは違うレベルの人間なんだ。人の上に立つべき存在。でも、その中でも要は特別一番高いところにいた。もちろん孤高の存在なんだから、人と話すのだってしてはならない」 「……なめっ」 「だから、要は」 「要っ!」  数歩近づいたら、要が悲しい顔をした。目に涙を溜めて、首を横に振る。俺がこれ以上近づいたら、その心臓が止まるんじゃないかって思うほど、胸のところでジャケットを強く握り締めている。 「要とは別れるんだ」  何言ってんだ、この。 「別れてくれたら、この写真はバラ撒かずにいてあげよう」  ふざけてんじゃねぇぞ。 「おい、クソったれ、黙れよ。要! そんな脅し無視しろよ! 要! 写真なんてどうだっていい!」 「そういう反抗的な態度にでるだろうなって思ったよ。でも、君は何か勘違いしている。これは君たちのためなんだよ?」 「あ?」  ニヤリと笑ったこの男をぶん殴ってやろうと思った。 「要はゲイだけれど、君はそうじゃないだろう?」 「は?」 「自覚はなかっただろうが、要はゲイだよ。思春期を一緒に過ごしてきたんだ。女性に興味がないのはわかってた。でも、君は違う。要が相手だから落ちたか? ははっ! そりゃそうだよ。要なんだから。でも」  今だけだ。そう言って笑いやがった。 「一生、同性である要を愛してる? なぁ、君はちゃんと考えたかい? 男同士で恋愛するってことを」 「はぁ?」 「言い方を変えてあげよう。君にもわかるように。なぁ、君は要を女と勘違いしてなかったか? 男だとわかっていて抱いたのか? 本当に? 本当にわかってたか? 男同士だってことをちゃんと理解していた? 理解してたら、こんな場所でこんな軽率なことはしないだろう? でも」  した。誰にいつ見られるかもわからない場所で、こんな恋人同士にしか見えないことをしたりして、わかっていないんじゃないのか? 男同士だっていうことを。職場だぞ? 「それに君は無意識なんだろうが、無意識だから質が悪い」  無意識? 何がだよ。わかってる。要が男なのも年上なのも上司なのもわかってて、それでも俺はこの人と。 「そう、ノンケの君にはきっと本当の意味では一生、ゲイのことはわからないよ」 「そんなことっ!」 「ないか? どっかで君はやっぱり男女の恋愛の考え方をしてると思うよ。そうだな、たとえば……要の手料理が食べたい、とか思ってたりしないかい?」 「!」 「やっぱりだ。どこかで要を男女の恋愛に当てはめようとするから、そんなことを思うんだよ」  たまたま好きになった人は同性である要だった。ただそれだけじゃダメなのかよ。 「君は女性と付き合える。要はそれはできない。今はいいかもしれないけれど、それはきっといつかズレを生む。要は特別な存在、もちろん知性だって飛びぬけてる。ちゃんと、君との将来への不安を理解してくれたよ」 「……は?」 「だって、そうだろう?」  何、言ってんだ? 「今はまだ若いから、身体に、というか欲に溺れることもあるだろう? その間なら男同士だって別に気にならないかもしれない。快楽がちょうど良く目隠しをしてくれる。でも、その欲がなくなった時、君はどうだ?」  そんなの気にならない。って、答えられなかった。 「高雄」 「おい、要」 「こんな写真でも大事にしたくなるほど、お前のことが好きだ。今、すごくお前に好かれていることが嬉しい」  脅されてる。そのネタになった写真すら大切なんだと嬉しそうに微笑みかける要がいた。 「でも、きっとそれも薄れる。私は男だ。お前を」  あんたは上司で、年上で、男で、俺はちゃんとわかってる。わかってるって。だから。 「お前のことをとても大事に思っている。高雄は女性にとても人気だろう? きっと私みたいなのじゃなくて、ちゃんと結婚して子どもがいる家庭を」 「俺は! あんたのことを!」 「不安なんだ!」  悲鳴みたいな声が空気を切り裂いた。 「見た」 「は?」 「高雄が、駅で女性といるところを見た」  見た? 駅で? 俺はあんた以外のことなんて。 「! あれは!」  何言ってんだって言いかけて、思い出した。たぶん、あの日だ。要はこの監査のために仕事が詰まってて、俺はしっかり休んで欲しくて、連絡をしようかどうしようかって迷ってた。要の代わりに買い物でもしておけば楽ができるかもって思って、出かけようとしたところで、冬月が駅に来てた。 「わかってる。浮気とか、彼女が、その恋人だとか思ってない」 「なら!」 「でも、似合ってたんだ」  要の声が震えていた。 「とても、似合ってた」 「……」 「ふたりが駅前で並んでいるのを見て、あまりに自然なふたりの立ち姿に声をかけられなかった」  あんなに近かったのに、手を伸ばすこともせずキスできる距離にいたはずなのに。 「高雄は俺とは違う。年も、恋愛対象も、何もかも! 来年の今頃、お前は俺の隣にいるのか?」  切り裂いて、隙間ができて、どんどん開いていく。 「再来年は? そのまた次の年は? 私の歳になっても、お前は独身で、俺への気持ちを同じままで持っていられるのか?」  開いて、裂け目は広がって。 「不安になる……だから」 「そろそろ時間だ。監査は終わり。ほら、話は済んだ。私たちも監査のほうに合流しないといけないからな。君はデスクに戻れ。営業の仕事、頑張れよ」  要が足元の写真を拾う。そして、それを優しい笑顔で手伝おうとする友人。それは穏やかな景色だった。そこから要が顔を上げて俺を見つけて、そして。 「さようなら」  そう言って笑って、ふたりでここを出て行くのを、裂けて、割れて、手の届かない離れた場所から俺はただ黙って見ていた。

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