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第43話 面倒だ。

 さようなら。  そう要のあの低く柔らかい声が言った。俺は……動けなかった。  女の代用になんてしていない。そう言いきれなかったんだ。 ――あの人が男だって、お前、ちゃんとわかってるのか?  そう尋ねたのは、あの要の同級生っていう男の声じゃなく、俺自身の声だった。内側から、むくりと起き上がって投げつけられた疑問に俺はすぐには答えられなかった。一瞬、詰まったんだ。  わかってる。あの人は男だって、ちゃんとわかってる。  本当にわかってるのか? 男同士だぞ? 今だけじゃなく、ずっとあの人は男で、俺も男で、結婚は? 子どもは? そう会うたびに訊いてくる家族はどうするんだよ。ゲイじゃない。でも付き合っているのは男だって?  今だけ? 違う。  それともこの先もずっと? あぁ。  同性愛者でもないのに? そうだ。  魔が差しただけなんだろう? 違う。魔が差したんじゃない。  今は夢中なだけだろう? そうじゃない。俺はあの人のことが。  だって、上司だって、男同士だってわかってないだろう? わかってる! 「今日明日、花織課長、出張ですか? どこに出張なんだろ。あ、もしかして! あの監査した大手商社!」  本当に? 「庄司さん?」  本当にわかってるのか?  「大丈夫ですか?」  じゃあ、なんで、会社のトイレでサカって、そのまま個室でセックスした? したかったら、だろ? 相手が男で上司で、見つかったらとか考えなかったのか? 考えなかっただろ。だからできたんだ。だから、あの写真だって踏みつけて無視すりゃいいって思ったんだ。  そんなんだから、あの人だって不安を感じたんだろ? そんなんだから、あの人は将来、その欲が消える将来に不安を感じたんだろう? なぁ、お前はどうだよ。 「庄司さん!」 「……ぁ」 「あの、すみません、スマホ、鳴ってます」 「え?」  気がつかなかった。音は出さない代わりに、デスクの上に放り出されていたそれは度々振動して、呼び鈴以上にうるさい音を立てていたらしい。  親からだった。そして、仕事中に電話とかなんだよって思ったら、もう昼休憩だった。  監査は無事終了――とはならなかった。書類不備の重欠点が三つ、製造ラインに関しても重欠点がふたつ。複数の要改善点が上がったことで、交渉は頓挫し、このままこの案件は凍結するんじゃないかって。  でも、そんな大事な監査結果報告を教えてくれたのは、営業が不在の時にメールの管理を担当している営業アシスタントである荒井さんだった。 「なんか、花織課長に二日も会わないと寂しいですねぇ」  要はあの監査の翌日、つまりは今日から二日間、「出張」らしい。ホワイトボードにはそうとしか書いてなくて、誰も詳細は聞かされていなくて、どこに行ったのかはわからない。 「あの怖い声が聞こえないの、変な感じ」  そして、監査で忙しく要が走り回っていた間に噂も忙しなく会社を走り回り、どんどんと膨らんででかくなっていった。色仕掛けで仕事をもぎ取った、という噂はいつの間にか姿を変えて、色仕掛けで向こうの会社トップに取り入り、ヘッドハンティングされたんじゃないかって。だから、監査で大きなダメ出しを食らったフリをして、そのまま自分だけはおいしい思いをしようと会社を乗り換えた――なんて、クソつまらない噂に変貌していた。 「はぁ……発注、どうなるんだろう」  かなりの好感触、監査の準備は短期間だったにも関わらずほぼ完璧に近い形にまできていたはず。でも、向こうサイドは表情を険しくさせた。 「あ、お昼だから、メールの確認しないとだった」  要のいないオフィスはどこか腑抜けていて。荒井さんも他のスタッフもどこかダラダラと仕事をしていた。要がここにいたら確実に低い声が雷を落としていたと思う。 ――さようなら。 「!」  あの時の声を思い出した瞬間、驚かせるようにスマホがまたデスクの上で派手な振動音を響かせる。母親が慣れないながらにもスマホでメッセージを送って来てた。何をそこまでして連絡したいことがあるんだろうって思って覗き見てから、ひとつ溜め息が零れる。 ――あんた、冬月さんのこと、お断りしたの? もったいない!  今、このタイミングでそれをわざわざメールするなよ。  冬月、同級生で俺のことを好きだと言ってくれていた。けっこうな美人、清楚で、優しそうで、そして、穏やかに笑ってた。もし、もしも要がいなかったら、俺は彼女と付き合ってたかもしれない。あの時は要がいたから断ったが、でも、今なら?  今なら付き合って? 結婚して? 子どもができて? そんなふうに進んでいた?  俺はたしかにゲイじゃないから、要と終わったら、次に付き合うのは。 「庄司さん!」  営業の一番奥、全体が見渡せる要のデスクから荒井さんがでかい声で俺を呼んだ。新年ムードも段々と抜けてきたのか、今日は営業が外回りにちょいちょいでかけていた。 「庄司さん! 大変です!」  慌てた表情で、手を忙しなく動かして俺を呼んでいる。なんか、あのテンションについてけるほど今の俺のテンションは高くなくて、少しダルくて面倒に感じながら、ふらりと立ち上がった。  ゆっくり歩く俺にもどかしいって顔をしながら、手をパタパタ動かして早く早くって俺を要のデスクに呼びつける。 「あの! 今、メールのチェックしてたんです。そしたら! これ!」 「……え?」 「これ! 辞表ですよね!」  主のいないデスク、背後は壁で、その後ろを要がいないのにうろつく奴はいない。しいていうのなら、今みたいに誰かが、というかうちの部署のアシスタントがメールチェックでデスクに来た時くらい。そのデスクに一通の手紙が置いてあった。 「辞表……」 「これって、庄司さん! メール!」  社内のメールは私的なものではないため、本人が不在の時はアシスタントが確認して、迅速な対応が必要な場合に備えている。たとえば納期調整、不具合品の客先への流出に即座に対応するため課長のメールだって不在だったら確認が入る。  そのメールにあの胸糞悪い同級生からメールが届いてた。  本日の監査において発見された不具合に関して、というメール。でも中身は明らかに仕事の枠を超えた密会を思わせる文章だった。そして、それに要が返信をしていた。密会の場所に何時に行くって、メールしてる。 「これ……」 「庄司君、その辞表、私が預かって、社長に届けるように言われてる」  目の前にある辞表と密会のメールに目を見開く俺たちに先輩営業マンが加わった。俺のデスクの隣で、営業の中では最年長の人。落ち着いていて、要が歓迎会を兼ねた忘年会に来ることを大慌てで俺に教えてくれる、少しユーモアもある人だ。 「あのっ」 「監査の準備をしたのは自分だ。準備不足による不具合の責任は自分にある。会社全体に迷惑もかけた、だから、責任を取るとおっしゃってた」 「責任って」 「預かっておく」  最年長のこの人が要の辞表を預かって、そんで、あの人は。 ――高雄は俺とは違う。  あぁ、違う。だって、あんたと俺は別の人間なんだから。 ――年も、恋愛対象も、何もかも!  あんたはゲイで、俺は、ノンケ。ノンケ、だから、恋愛対象は異性。っていうか、ノンケって、なんだよ。 ――私みたいなのじゃなくて、ちゃんと結婚して子どもがいる家庭を。 「じ、ひょう……」  要は会社を辞めて、あの野郎とゲイとして、同性愛者として生きていく? 俺はノンケだから、それとは違う場所で生きていく?  この辞表を渡して? 「……」  そのほうが楽なのか? 面倒じゃねぇ? あの人と一緒じゃ面倒ばっか? 性欲なくなったら、一緒にいる意味はねぇのか? 「ちょっとおおおおおおおお!」  鼓膜が破れるかと思うほどのでかい声だった。 「何してるんですか! 庄司さん!」 「……は?」  その声は荒井さんだった。顔を真っ赤にして、すっげぇ鬼みたいに怒ってる。 「もう! 庄司さん、面倒です!」 「はぁ?」 「花織課長はぼっち慣れしてるんですよ? これ! 辞表、本当に出すんなら、もう渡してるでしょ! こんなとこに置いておいてどうするんですか! メールだって私がお昼には必ずチェックするのを課長は知ってます! で、わざわざメール残して、営業の外出予定書くボートのとこにただ出張って、あんな殴り書きして! そんでそんで! つまり、ぼっちな課長からのサインですってば! なんでわかんないかなぁ! もお!」  すげぇ長い一息で全部を俺にぶつけるように一気に話し終えて、まるで全力疾走してきたみたいに息を切らせてる。 「密会予定は今日の午後です。私は必ず昼にメールをチェックします。私がチェックした後、それでも間に合うようにって、お迎えが間に合うようにって、思って、課長はメール返信してます! 出張じゃないし! 辞表、ここに置いてあったし!」  あの人は。 「あ、え……」  この辞表をここに置いて、いつもは丁寧に細かくわかりやすく予定を書き込むホワイトボードに雑な言い訳を書いて、メールで場所を教えて。 「庄司君、私がその辞表を、預かるよ」 「……」 「預かってるから、行ってくるといい」 「午後のメールチェックしときますから」  あの人はすげぇめんどくさくて、でも、めんどくさいくない。一人ぼっちでいることが長かったせいで、ひとりで色々考えて悩んで、勝手に決めて、迷子になって。クセになった「ぼっち」の習性があるから、パイパンのことも、あのクソ野郎のことも、全部、ひとりで片付けようとする。 「俺、ちょっと、課長、探してきます」 「はーい、いってらっしゃい」 「気を付けて」  マジで、なんなんだ、あんたは。 「あ! 庄司先輩!」 「なんだよ! 山口!」  ひょこっとデスクトップから顔を出した後輩の山口が何か紙をピラピラとさせながらこっちを見て笑ってた。 「あの、課長いない間に見積もり、二件ゲットしてきたんで。確認してもらいたいんで、お願いしますって言っておいてください」  いってらっしゃい、そう言われながら、今度こそ飛び出した。あの人がすっげぇ面倒なくらいわかりにくいサインをするから、ちゃんとわかるように言えよって、文句を言いに、そして、そろそろ俺がいることに慣れろよって抱き締めるために、迎えにいくために、走り出した。

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