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第45話 雫
好きって言葉ひとつじゃどうにもならないくらい、この人のことが好きだ。
「俺、怒ってるからな」
愛しくてたまらない。
あの胸糞悪い部屋から手を繋いで、この人をさらった。あそこから俺のところに連れ戻した。
「……要」
エレベーターっていう密室の中に、要の声が響く。少しだけ鼻にかかった声をしてた。
「俺って、そんなに頼りねぇ?」
「ちがっ」
「頼りないよな」
「違う! そんなこと!」
真っ黒な瞳が濡れてる。
「頼りねぇよな。年下で、部下で、あんたは課長だっつうのに、トイレで襲い掛かったし、酔っ払ってるところをつけ込んだし」
「それはっ!」
「でも、俺に頼ってくれ」
この瞳に真っ直ぐ見つめられるのは、一生、自分がいいと思った。あんたの瞳に写るただひとりの男は俺でありたいと思った。そのためだったら、なんでもする。きっと、なんでもできるよ。
「要のことだけは必ず俺が守るから」
「……」
「ずっと、好きでいるから」
女の代わりになんてしてない。女でも男でもなく、俺はこの「花織要」が好きになった。そこに性別なんてなくて、あるけど、やっぱなくて、ただ、すげぇ単純にこの人のことが愛しいって感情だけ。
「何万回でも言い続ける。要のことが好きだって、あんたがもうわかったよって観念するまで言い続けるから」
そしたら、きっとノンケだ、ゲイだ、同性愛者だって悩む気も失せるだろ?
「ほら、帰るぞ。マジで」
「え、ちょ!」
高級ホテルのエレベーターは地上に降りたこともわからないほど静かに一階のフロアへと到着した。スッと、静かに開く扉。でも、俺たちは手を繋いだままだ。スーツ姿の男がふたり、エレベーターっていう密室の中、真ん中で手を繋いで立っている。
「ちょ、高雄」
そんな俺たちを見て、エレベーターを待っていた、上等なスーツに身を包んだホテルの宿泊客が見つめて、視線を少しだけ下へと向けてから、もう一度、性別を確かめるように顔を上げて目を見開く。
「たかっ」
「ほら、降りるぞ」
「ちょ!」
手を離すつもりはない。他人が俺たちをどう思おうが関係ない。誰よりも大事にしたい、誰よりも大切に想っている、その人は男だったってだけ。初めて、本気で好きになった人が上司だったってだけの話。
「た、高雄!」
エレベーターを降りたら、そりゃ人はわんさかいるだろ。ここはフロントのあるロビーなんだから。
そんな大勢に要がたじろいだ。手を繋いでいる、男同士で、って周囲に見られたらって怖気づいて、足を止めて、手を引っ込めようとする。
「俺は気にしない」
「お前はっ」
「あんたのことが好きなのは、誰にも非難される覚えはない」
「!」
俺は引っ込めない。あんたと繋いだこの手を離すくらいなら、周囲にチラチラ見られるほうが断然良い。そんなのなんてことはない。
「手、離さないからな」
「!」
だからなんだよ。見られて困ることなんてひとつもしてねぇよ。誰かを脅したり、他人を物のように扱ったり、人の欠点を嘲り笑って傷つけたわけでもない。なんで、ただ好きな人と手を繋いで歩くことに俯かなくちゃいけないんだ。隠すようなことを俺は、俺たちは今してるのか?
「おま、お前は、ノンケなのにっ」
ずっと濡れていた黒い瞳が堪え切れないと、大粒の涙をひとつ落っことした。大きな雫は、この高い天井にぶら下がる高級なシャンデリアよりも光り、この人の黒い睫毛を輝かせ、宝石みたいに零れ落ちる。
「わかってるのか? お前、男同士で恋愛なんて、そんなのっ! こんな手を繋いでるのを人に見られたりしたら! そんなっ」
「そんな……何?」
繋いだままの手が質問にピクンと反応した。
正月にふたりで初詣に出かけた。その前には三連休に動物園にも一緒に行った。手は繋いだけれど、寒いからとか理由くっつけて、ポケットの中でだけだった。でも、これって、悪いことじゃねぇだろ。ほら、外に出ればいくらでも男女で繋いでるだろ。それが男同士になっただけのこと。なぁ、それってそんなに隠さないといけないのか? 見られる、驚かれる、だからなんだよって話だろ。
違法じゃねぇよ。
「そんな……」
「要のことが好きだ。離したくない。だから、手を繋いでる。それだけのことだろ」
「っ」
「なぁ! 要!」
俺が突然でかい声を出して、要も、そして周囲にいた赤の他人も驚いて、視線がこっちに注がれる。
今日、あんたの顔を見た時からずっと思ってた。
「抱きつくんなら、そんな布じゃなくて本物にしろよ」
「!」
ずっと、あんたは深緑のストールを握り締めて離さないようにって、縋るように抱き締めてた。
「言ってんだろ。あんたのことを大事にするって。だから、泣くのも怒るのも、こっちでしろよ」
「っ!」
「そのほうがあったけぇじゃん」
腕の中に閉じ込めると、華奢な、あの「鬼の花織課長」の細い肩が震えてた。懐で、胸に染み込みそうなこの人の嗚咽が聞こえる。
「高雄、の、スーツを汚してしまう」
「気にすんな。鼻水、そのストールで拭けよ」
「……もったいない」
「また、来年のクリスマスに買うから」
「……」
そうだよ。来年も再来年も、あんたのへクリスマスプレゼントも贈るし、初詣にも行く。同じ会社に勤めてるんなら、年末年始は同じだけ休みだろうから、ずっと一緒にいて、年越し蕎麦にバカ高いほうれん草入れて食って、除夜の鐘を聞く。
「……高雄に申し訳ないと思ってた」
「……なんで?」
お前はノンケだから。男の自分とこうしてることを申し訳ないと。とても好きだけれど、大事だから、大切だから、いつかはこの手を離さないといけない、そう思っていたって告白が胸の中に響く。
「マジで、あんたって……」
「ごめん、お前のことを穢してしまった」
「それは俺だろ」
あの男はムカつくし、胸糞悪くなるくらい最低だけれど、でも、ひとつだけ合ってた。
「あんたは綺麗だ」
「!」
「あんたこそ、俺なんかでいいのか? 俺は」
「高雄がいい!」
また一粒、雫が落っこちる。この世界にある光をかき集めても、きっと叶わない。そんな光を纏った綺麗な綺麗な雫がもったいなくなるほどいくつもいくつも、その瞳から零れて落ちる。
「俺がいい?」
「っ」
「言えよ」
要はおねだりが下手くそだから。こうしてこっちから手を伸ばしてやらないと、すぐに困った顔をする。
「ほら、早く」
「……」
「言えって。キスしたいんだから」
唇を塞いだら言えなくなるだろ? だから、早く、今のうちに。
「要」
「高雄がいい」
庄司高雄しか欲しくない、低く、でも柔らかい声がそれをようやく告げる。
「高雄のことが、好き、だ」
その告白がキスと一緒に俺に触れたから、そのままもう離さないようにって、この人ごと抱き締める。
「俺も、要が好きだ」
ホテルのロビー、ほぼど真ん中で抱き合うスーツ姿の男がふたり抱き合ってた。世界一嬉しそうに笑って、キスをした。
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