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六章 深海と幻影 7

 おかしい。振り払ったはずの何かが、まだ腰に纏わりついているような気がする。それが人の腕だと認識したのは、目蓋を開いた先に見えた景色に見覚えがある顔が映っていたからだ。  高崎はタクミを守るように抱き込み、静かな寝息を立てていた。背中に回された腕には力強さはあるものの、どこか安心させられる包容力もあった。  ここに閉じ込められてから一度も味わった事のない暖かい居心地に、タクミは思わず鼻の奥がツンとなった。こぼれてしまいそうな嗚咽を必死に堪える。高崎はまだ眠っているが、彼の前で弱い自分の姿をさらしたくはなかった。  高崎に嫌われたくない。高崎にまで見放されてしまったら、タクミはもう生きていけない。  生きるか死ぬか。偽りの告白をするくらいなら殺された方がマシだ。そう思い込んでしまうほどに、タクミの心は壊れかけていた。  冷たい水に沈められた恐怖は今でも忘れられない。思い出すだけでも全身がガタガタと震えだす。身体に刻み込まれた恐怖はタクミの意志など関係なしに湧き起こる。震えが止まらないのだ。  だが、タクミ窮地に陥った時にいつも助け出してくれる人物もいる。彼は優しく声をかけた。 「……大丈夫か、タクミ」  空耳だと思った。だがしっかり彼の方を見ると、さっきまで寝ていたはずの高崎はすでに起きていて、タクミの顔を見つめていた。背中に回された腕にも力が籠り、高崎との距離は見る見るうちに縮まった。だが不思議と嫌悪感は湧かない。 「もう大丈夫……安心しろ」  その証に震えも治まっていた。高崎の優しい声が、密着した胸から聞こえる鼓動が、力強い腕がタクミの全身の強張りを溶かしていった。 「タクミ?」  喉に何かがつっかえて声を発することが出来ない。目も痛くなってきた。  こんなにも優しく暖かい扱いを受けたことがないタクミにとって、高崎の存在はある種の毒にも等しい。甘い蜜に絆されてはいけない。  向こうはこっちを知っていても、タクミにとってはほぼ初対面の人間なのだ。安易に身を預けてはいけない。だが高崎はタクミに残された最後の砦を、いとも簡単に破壊した。 「堪えなくていい」  片方の手がタクミの頭に乗せられ、心地よいリズムでポンポンと優しく叩かれる。幼い頃の記憶と重なりタクミは静かに涙を流した。 「うっ……っ……」  一度溢れたら次から次へと流れてくる。せめて泣き顔だけは見られまいとタクミは高崎の胸に顔を埋め、声を堪えて泣いた。タクミが泣き止むまで、高崎はずっとタクミの身体を離そうとはしなかった。

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