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六章 深海と幻影 8
「……高崎さん」
タクミは高崎の胸に顔を埋めたまま独り言のようにつぶやいた。
「俺、どうして生きてるんだろ……」
「……」
頭を撫でていた高崎の手はピタリと止まったが、それは一瞬の事だった。再び訪れた安らかな時間に、タクミは張りつめていた緊張の糸を解いた。それに伴い、胸の内に秘めていた思いが言葉となって、口からするすると出てくる。
「死んだ方がマシだなんて本気で思ってたけど……やっぱり死ぬのは怖くて……。苦しいのは嫌だ……痛いのも嫌だ……。死ぬのはもっと嫌だ……」
涙はもう流れなかった。水が抜けたダムの底のひび割れたコンクリートのように、タクミの心もまた乾ききっていた。
「生きるのも嫌だ……」
それきり何も話さなくなったタクミを高崎はじっと見つめ、それからゆっくりと上体を起こし、ベッドの淵に腰掛けた。そして横たわったままのタクミを見下ろしながら言った。
「お前はこれからどうしたいんだ?」
それは今のタクミには意味がない質問のように思えた。弟に全てを支配された状況下におかれている自分に、いったい何が出来るのだろう。明日どうなっているのかすら分からない。何より自分自身が分からない。
生きたいのか、死にたいのか……。そんな簡単なことすら分からなかった。
何も答えることが出来ないタクミに対して、高崎は先程までの優しい態度から一変して厳しい言葉を投げかけた。
「このままマコトに囚われたままでいいのか? 嬲り殺しにされるのがオチだぞ」
「じゃあ、どうすればいい?」
「自分で考えろ」
「大学も、バイトも、住む場所も……女も……男としての、兄としてのプライドも、全部捨てた……捨てさせられた」
脳裏に浮かぶのは優等生を演じていた弟の醜い素顔。もともと空けていた溝を、弟から性的暴行を受けたあの日から、さらに深くした。
家を飛び出して、新たな環境に慣れて、弟から逃げ切ったつもりでいた。だが、あの弟はいとも簡単に居場所を見つけ出した。そればかりかタクミが大事にしていたものを根こそぎ奪い取り、帰る場所をなくした。
「俺はこれ以上、何を捨てればいいんだ……」
タクミに残されたものなど何もなかった。わずかに残った意志ですら、今にも崩れてしまうほどに脆弱なものだった。頼みの綱である高崎からは冷たく突き放された。もう終わりだ。
自ら死を選ぼうにも恐怖心が打ち勝つし、方法すらも思いつかない。もとより、自殺出来る体力も残されてはいなかった。何よりも全ての元凶である弟が許さないだろう。指先一つ動かすのですら億劫な今の状況下で、タクミはその声を聞いた。
「捨てる必要はない」
声のした方に視線を動かすと、高崎は懐から何かを取り出してタクミが横たわるベッドの土台とマットレスとの間に押し込んだ。
「これからお前がどうしたいのかはお前自身が決めろ。だが、お前がどんな最後を選ぼうと俺はお前を見捨てない。それだけは覚えておいてくれ」
高崎は笑っていた。表情の読めない男だが、この時だけは穏やかに微笑んでいた。タクミは細くなった腕を伸ばし、その存在を確かめる。力の入らない手でそれを握り感触を確かめた後、再びベッドの中に収めた。全てを見届けた高崎はタクミの額に軽くキスを落として、静かに部屋を出て行った。
高崎から託された物の正体。それは『希望』だった。
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