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報いの手

気が付くと、暗がりで息を殺しながら(うずくま)っていた。 壁へと寄り掛かり、外界から少しでも身体を遠ざけ、背中を丸めて縮こまる。 息遣いだけが聞こえ、慰めるように我が身を抱いて、隙間から様相を窺う。 青白い光が射し込み、雲一つないであろう夜空にはきっと、息を止める程に美しい月が浮かんでいる。 室内へと、救いの手のように差し伸べられる月光を見つめ、暫くしてから此処が何処であるかを察する。 怯える視界には、幼子にはあまりにも広い部屋が映っており、それはそのまま家族との心の距離を表しているかのようだ。 クローゼットに閉じ籠もり、今は抜け殻の寝台を見つめ、懐かしい閉塞感に突き動かされながら俯く。 気を紛らわすように細腕を擦る手は小さく華奢で、酷く頼りない。 あの日見た光景を、幼い視点を借りて見せ付けられている事に気付いても、今更どうにも出来ない。 呆れる程に怖がっていて、情けない程に憔悴していて、惨めな程に弱々しい子供は絶望している。 此処からは逃げられないと、頭の片隅ではとうに分かっているのだから。 暗闇へと引き摺られそうになる思考へ、せめてこれは夢だと呼び掛ける。 とっとと目を覚ませ、居るだけ無駄だ、とそう考えているうちに嫌な予感がして息が詰まり、唐突に視界が開けて影が覆い被さる。 『こんなところに居たのか』 囁きに総毛立ち、瞬時に身体が強張っていく。 いやだ、いやだと後退りして身を捩らせても、容易く腕を掴まれて引っ張られ、いつしか訴えるように目には涙が浮かんでいる。 穏やかで、優しい声であるのに、どうしてこんなにも恐ろしいのだろう。 影を背負う誰かに、思い出したくもない誰かに捕らえられ、恐怖が増す。 「うっ、うぅ……」 「おい! おい、漸! 起きろ!」 柔肌に触れられ、おぞましさで叫びそうになっていたところで、唐突に現実へと呼び戻される。 「はっ……」 目を見開くと、青白い光が窓から射し込んでいる。 そっと撫でるかのような月光が穏やかに降り注ぎ、辺りを淡く包み込む。 はあ、と呼吸を繰り返しながらぼんやりと視線をさ迷わせれば、やがて見下ろす存在に気が付く。 一瞬誰だか分からなくて、自分が何処に居るのかすらも見失って鼓動が跳ね上がるも、然して間もなく聞こえた声で我に返った。 「大丈夫か……?」 肩を揺さぶられていたらしく、温もりを感じる。 焦点を合わせると、彼は心配そうに眉根を寄せており、ふっと急激に力が抜けていく。 アイツじゃない、此処は夢の中でもない。 胸中で呟いて、乱雑に打ち鳴らされる鼓動へと言い聞かせて、徐々に気持ちを落ち着かせようと試みる。 「(うな)されてたぞ、お前……。何かまた……、悪い夢でも見たのか?」 遠慮がちに、気遣うように注がれる低音が心地好くて、目を凝らしてじっと見つめる。 深夜であろう室内で、凛とした静寂に包まれる中で、月明かりに照らされながら真宮が見下ろしている。 「……夢? 何だっけ、それ。覚えてねえ……」 思いの外に掠れた声が、問い掛けへと答える。 本当は、覚えている。 目覚めても尚はっきりと、生々しく感触を、声音を思い出せる程に執念深く絡み付いて、柄にもなく今にも身体が震え出しそうであった。 「そうか。覚えてねえほうがいいのかもな。スゲエ汗掻いてるし、それに……」 虚勢を張って、視線を逸らしていると頬へ触れられ、次いで額に貼り付いていた髪を掻き分けられる。 いつの間にか汗を掻いていたらしく、前髪を払われてから額を撫でられ、拒む気持ちは湧かなかった。 何にも言わずに声を聞いていると、不意に言葉が途切れてから目尻を撫でられ、驚いて視線を向ける。 「あんま心配させんじゃねえよ」 涙を拭われて、初めて泣いていた事に気が付く。 だがそれよりも、困ったように笑う青年を目の当たりにして、言葉に出来ない感情が押し寄せてくる。 自分は今、どんな顔で彼を見つめているのだろう。 ゆっくりと上体を起こし、吸い寄せられるように腕へと触れてから抱き付き、安心感が込み上げてくる。 温もりへと顔をうずめているだけで殺伐としていた気分が和らぎ、自然と抱き締める手に力が入る。 「お、おい。どうした……?」 真宮としては、無言で突然に抱き締められて訳が分からないらしく、驚いたように声を上げている。 「真宮……」 我が身へと言い聞かせるように名前を呼んで、此処なら安心だからと悟らせて、彼の温もりを感じながら目蓋を下ろす。 何か言いたげな雰囲気を察するも、間を置いてから代わりに背中を擦られ、辺りはしんと静まり返る。 大分気持ちが和らいではいたものの、根深く刻み込まれた恐怖心は簡単に消えず、遠ざけようと意識すればする程に手繰り寄せてしまう。 幼い日々の記憶が、否応なしに流れ込んでは止められず、落ち着いてきたはずの心が乱れていく。 逃れようと足を縺れさせ、息を潜めて暗がりに隠れても、最後には必ず見つかって連れ出される。 怒られた事はない、彼はいつも優しかった。 それなのに酷く恐ろしくて、一刻も早く離れたかった。 「漸……?」 ぎゅっと、悪夢を振り払うように力を込めれば、間近で名前を呼ばれる。 それには気付かずに、顔をうずめながら温もりを確かめ、知らず知らずのうちに呼吸が浅くなっていく。 忘れようと、大丈夫だと、自分に言い聞かせる。 いつしか身体が震えるも、真宮は咎めもせずに背中を擦り、顔を寄せてくる。 さら、と髪が揺れ、息遣いを間近で感じ、耳元で囁かれた言葉に救われる。 「此処にいる」 静かに、だがはっきりと紡がれ、真っ直ぐに届いてうっすらと目蓋を開く。 薄明かりに照らされ、少しずつ彼の姿が映し出されて、今度こそ虚ろな影が此の身から引いていく。 あんなに怖かったのに、泣き叫ぶように心臓が跳ね上がっていたのに、今ではもう身体の震えも収まっている。 安心したら何だか眠くなって、今なら夢にも縛られない気がして、温もりに守られながらうとうとする。 そうしてゆっくりと目蓋を下ろし、穏やかな寝息を立てるまでに然して時間は掛からなかった。 【END】

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