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うたかたの夢
風邪を引いて熱を出すなんて、何年ぶりだろう。
重りを乗せられたかのように身体が怠く、幾ら寝ても体調が良くならない。
起き上がるなんて到底無理で、鉛のような身体は全く動かず、数日間ずっと大人しく横たわっている。
すぐ治るだろうと高を括っていたが、あれよあれよという間に喉を痛め、高熱を出し、咳が止まらず今では立派な大病人だ。
つばを飲み込む度に、喉が痛くて仕方がない。
咳をする度に胸が苦しくて止めたいが、今のところ治まる兆しすらなく、何も出来なくてずっと憂鬱だ。
せめて汗を流したくても、熱に侵された身体ではとても耐えられそうにない。
ついてねえなあ、と思いながら目を瞑り、静まり返った室内で身動ぐ。
すると、一方の手に感触があり、ささやかな温もりがある事に気が付く。
「おいおい……」
絞り出した声は、思っていたよりも弱っていた。
視線を向けた先には頭があり、誰かが傍らで椅子に腰掛けながら、やんわりと手を握って眠っている。
一緒に布団を被っていなかっただけマシだが、あれだけ寄るなと言っていたのにいつから居たのだろう。
寝てる場合じゃねえよ、と叱ってやりたいが、今は体力を奪われている。
暫くは眺めながらぼんやりとして、握られていた手を僅かに動かす。
すると目の前で、今まで眠っていたはずの漸が飛び起き、声は出ないが少なからず驚いてしまう。
「真宮……」
目が合うと、不安げな彼に名を紡がれる。
風邪はうつっていないようだが、どちらが病人か分からないくらい憔悴しており、こんな弱々しい姿は滅多に見られない。
まるで怯えているかのように心許なく、彼の表情は悲しみに暮れている。
なんか子供みてえだな、と思ってしまった。
「お前……、なんで居んだよ。近寄るなっつったろ……」
「俺の勝手……」
「少しは言うこと聞け……」
もっと言いたい事はあったが、遮るように咳が出て苦しく、何も言えなくなる。
「真宮……」
咳き込んでから大きく息を吸い、少しずつ吐き出しながら落ち着かせると、傍らでは漸が心細そうに手を握って見つめている。
風邪をうつしたら申し訳ないから言っているのに、彼は全く言う事を聞かない。
それどころか見張りでもしているかのようで、ろくに寝てもいなければ、飲まず食わずなのではないだろうかと急に心配になってくる。
「お前……、少しは寝てんのか?」
「さっき寝てたじゃん……」
「あんなの寝てるうちに入んねえよ……。あと、何か食ったのか……? ずっと張り付いてたんじゃねえだろうな……」
「関係ねえじゃん。俺のやりたいようにやる。つうか、人のこと心配してる場合かよ」
「漸……」
「だって目ェ離した隙に……、真宮が死んだら困る」
可愛いげのない言葉を並べていたかと思えば、不意にそんな事を言われて事態をよく呑み込めない。
死んだら困るって……、ただの風邪だぞ……?
まさか俺が死ぬんじゃないかって心配して、ずっとここで見張ってんのか?
「大袈裟な奴だな……。これくらいで、俺が死ぬわけねえだろバカ……」
「そんなの分かんねえ。居なくなったら……、俺どうしたらいいの……」
「勝手に殺すな……」
宥めながら解いた手を上げると、彼の頬に触れる。
僅かに指を滑らせると手を重ねられ、漸が黙ったまま頬を擦り寄せてくる。
普段の彼からは想像もつかないような気弱さで、死んだらどうしようと本気で心配しているらしい。
「寝たら治る……」
「ずっと寝てんのに全然良くならない……」
「大丈夫だから……、そんな心配すんな」
「別に心配なんてしてねえ」
「お前……、この期に及んでそれは苦しいだろ」
つい笑ってしまうと、少しだけ彼の緊張が解れたような気がする。
頬を撫でても大人しくしていて、抱き締めるように腕へと寄り添われる。
眠る以外にする事がなくて、長らく退屈していた。
相変わらず声は出ないし、咳も止まらないが、久しぶりに話が出来て気が紛れたのは事実であった。
しかし健康なくせにこんなに弱られては、いつまでも風邪なんて患っていられない。
幼い子供が悄気ているかのような彼を見て、早く治さなければと思う。
「少し休めよ……。俺も寝てえから」
「やだ……。ここにいる」
「漸……。ンなこと言われたら寝れねえ。悪化したらどうすんだよ」
「なら一緒に寝る」
「ダメだ。お前まで風邪引いたらどうすんだよ。今だって危ねえのに……」
「でも……」
「早く治して、またお前と遊びてえから……。な? 心配すんなよ……。居なくなったりしねえから」
掠れた声で投げ掛けてしまったが、どうやらきちんと伝わったらしく、漸は複雑そうに口を噤んでいる。
子供相手にしてるみてえだな、なんて思いつつも手を移動させ、手招きすると素直に頭を下げてくる。
さら、と指通りのいい髪を撫で、憂鬱そうな彼の動向を窺う。
物憂げな表情は変わらないが、それでも先程よりは落ち着いているのか、わがままは言ってこない。
本当は言いたいんだろうが、口を開いては考え込み、迷うように視線を泳がせている。
「分かった……」
見守っていると、やがて観念したらしい漸が呟き、どことなく拗ねた顔をしている。
「拗ねてんじゃねえよ。ガキかって」
「ガキでいい……」
「面倒なんか見ねえからな……」
「俺が面倒見ねえと死んじゃうくせに」
「あ、コイツ」
文句を言いかけるも、また咳き込んでしまって何にも言えなくなってしまう。
やばい、と思ったが止められず、気掛かりであった青年を見ればやはり心配そうに顔を歪めている。
「なんでもねえ、から……。お前、とっとと出てけ……。うつしたくねえんだよ」
頭を撫でてから手を離し、出ていくように促す。
まだ話したいのは山々だが、少し疲れてきた。
再び寝台へと手を置いて、敷布を撫でながら目蓋を下ろすと、すぐにも睡魔が降り立って意識が遠退いていく。
まだ……、アイツが出てくの確認してねえ……、けど、目ェ開けんのもたりぃな……。
心地好い眠りにいざなわれながら思考を巡らせていると、微かに手に触れられた感覚がある。
見て確かめようという気にはならなかったが、今にも眠りに落ちそうな最中で切実な声が聞こえ、更に意識が深みへと沈んでいく。
「早く……、元気になってね……」
消え入りそうな言葉であったが、途切れそうな意識へと滑り込み、夢うつつで返事をして暫くまた眠ることになる。
次に目覚めた時には、きっともっと良くなっている。
早くまた憎まれ口が聞きたいと、そう思いながら眠りへと就いた。
【END】
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