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第39話

 しばらくの間、呆然と座り込んでいた。  パニックは治まらず、昨夜のことを思い出すのも恥ずかしくてどうしようどうしようと繰り返していた。 「泉くん、タオル出しておくね」  とドア越しに呼びかけられて心臓と身体が跳ね上がる。 「っ、ふぁ、はいっ、ありがとうございますっ」  そういえばタオル出すの忘れてた。  振り返るとドアに涼介の影が映っていて緊張してしまう。あわあわと返事をするとすると笑い声が響いてきた。 「シャワー出し方、わかる?」  楽しそうな口調に目を点にした後、顔が熱くなる。  バスルームに飛び込んで時間が経つというのにいまだにシャワーを浴びてない。シャワーを出してさえいない。 「ゆっくりお風呂はいるならお湯張るけど?」 「だ、大丈夫です!!」  裏返った声で即座に返してシャワーのコックをひねった。 「ひゃっ、冷てっ!」  勢いよくふりそそいできた水に驚いてしまう。すぐに水はお湯に変わっていったが、水音に混じって涼介の爆笑する声が聞こえてきた。 「ごゆっくり」 「……は、い」  きっと涼介には届いていないだろう返事をがっくり項垂れながらして、のろのろと身体を洗い始めた。  温かいお湯にさらされていると少しだけ気分が落ち着く。同時に自分の身体がひどくべたついていたんだなと気づいて、ぐっと喉元が詰まる。 「……うう……まじで?」  初めて涼介の、この部屋へ来たとき――ファーストキスを奪われた。あのときも前の日の夜酔っぱらっていて……。  だけど、ファーストキスの衝撃どころじゃない。 「ほんと、まじで……俺、まじ?」  じっとしてられなくて貧乏ゆすりよろしく足踏みしてしまいながらなんとか身体を――下肢や尻には恐ろしくてサッとしか触れれず――洗って、浴室を出た。  ずっと隠れていたい、ところだが遅くなったらきっと様子を見に来るだろう。  ドアにかけられていたバスタオルを取ってごしごしと身体を拭いて、ため息。  身体はすっきりしたけど、心はどんよりだ。  信じられない、の一言で全部埋め尽くされている。  だって――俺、だって、だって童貞だったのに……。 「えっち……しちゃった、のか」  思考はループでそのことばかり。  結局泉が髪を乾かして部屋へと戻ったのはそれからたっぷり30分以上は経ってからだった。  いい匂いが充満していた。洋食の匂いだ。なんだろうと鼻をくんくんさせながら「シャワーお借りしました」とキッチンにいる涼介に声をかけた。 「ちょうどよかった。ごはんできたよ。座ってて」  キッチン前のダイニングテーブルを指さされて、泉はぎこちなく頷きながら席に着いた。  すぐに料理が運ばれてくる。大きな皿にスパニッシュオムレツ、こんがり焼かれたソーセージ、サラダ、ベーグル、そしてフルーツの入ったヨーグルト。  この前泊まらせてもらったときはフレンチトーストが出てきて驚いたが今日は泉には作り方もさっぱりなスパニッシュオムレツだ。  ポカンと呆けて泉は料理の数々を見渡した。 「これ、今作ったんですか?」 「うん。泉くんすぐ出てこないだろうなーと思ったから、スパニッシュオムレツ作ってみたよ。でもたいしたことないんだよ、混ぜて焼くだけだし。焼くのに少し時間かかるってくらいで」  言いながら涼介が手早く切り分けてくれる。皿にとり、ケチャップやドレッシングは好きに使ってね、と言われてそろそろとケチャップをかけ、サラダにはフレンチドレッシングをかけていく。 「……いや、すごいですよ。俺、パン焼くくらいしかしないもん。朝とか」 「俺料理するの好きだからってのもあるよ。さ、食べよー。いただきます」 「いただきます……」  手を合わせてスパニッシュオムレツを一口。  ジャガイモ、玉ねぎ、ベーコン、ピーマンなどなど。野菜たっぷりのスパニッシュオムレツは驚くほどに美味しくて顔がほころぶ。 「めっちゃうまい! すっげぇ美味しいです!」 「まじで? よかったー」 「ほんと、すごいです!」  一口頬張れば自分が空腹だったんだと気づいて泉は美味しさも相まって勢いよく食べ進めていく。 「ベーグルはね、近所のパン屋さんのやつんだんだけどお気に入りでまとめ買いして冷凍してるんだ」 「へー。俺ベーグルとか買ったことない」 「ベーグルサンドも美味しいよ。生ハムとクリームチーズ挟んだりして」  食べながら「へー」という相槌しか出てこない泉に、涼介は楽しそうにおいしいベーグルの食べ方などを教えてくれる。  まったく興味がなかったのにベーグル今度買ってみようかな、なんてことを考えてしまうくらいには涼介の話術は巧みだった。 「いやでもほんと美味しい。こんなすごいの家で食べないし」  一人暮らしのいまはもちろん、実家にいたころもこんなに朝から豪華な食事はなかった。 「そう? 喜んでもらえたら嬉しいな。泉くんの胃袋も奪っておきたいしねー」  コーヒーを飲みながら涼介が片肘をついて泉を見つめにっこり笑いかけてくる。 「……はぁ」  同じようにコーヒーを飲もうとカップを口元にもっていっていた泉は飲みかけて、一瞬後吹き出しそうになった。なんとかこらえたがむせてしまって盛大に咳き込む。 「大丈夫、泉くん」 「……だ、だ、だ、だいじょうぶ、です」  わ、忘れてた。すっげぇいい匂に気を取られ美味しい料理と空腹に、少しっていうか、ありえないけど、忘れてた。  なんで自分がいま、ここにいるのか、を。  思い出した途端すべての動きがぎくしゃくしてしまう。カップを置く手も震えるし、次なにを食べるか選ぶのも躊躇う。ヨーグルトに手を伸ばすも、スプーンですくうのに緊張して口に運ぶのも緊張。――涼介が見ているからだ。 「……ほんっと泉くんって可愛い」  しみじみと呟かれて身体を縮こまらせる。 「そーんないきなり緊張しなくっても、もう食べたりしないって」 「……たべ……」 「いやほんと、言い訳じゃないけど、最初から泉くんのこと食べるつもりできのう誘ったわけじゃないからね?」 「……は、はぁ」  それはわかっている。そもそもきのう泉のほうから電話したのだ。おいでよと言われて来たのも泉の意志だ。流されてしまったのも。 「さっきも言ったけど反省はしてる。お互い素面のとき初エッチしたかったなーって」  ヨーグルトを食べていた泉はまた吹き出しそうになって、口元を押えた。  恋愛経験値がゼロなせいなのか? 涼介の思考回路が不明すぎて泉は返す言葉がまったく浮かばない。 「でもさ、気持ちよかったよね?」  顔が熱くなる。思い出すな思い出すな、と念じてもよみがえってくる昨夜のこと。  何回もイった。痛かったし、苦しかったはずなのに、最後はイった。 「まじ、無理です……」 「なにが?」 「恥ずかくて死にそう……」  弱弱しく呟いて、顔を上げられない。  いつか一貴と――なんてことは妄想でしかなかったとして、いつか誰かと、とは思っていた。死ぬまで経験なし、とは流石にないだろうし。だけどまさか最近ようやくの初恋のあとすぐにこんな。 「恥ずかしい――ね」  涼介の声のトーンがわずかに落ちて意味深に響いた。何気なくちらっと視線を上げると目が合う。逸らす前ににっこり笑顔を向けられて目を泳がせた。 「本当に泉くんって……」  なんだまた可愛いと言われるのか。男にとって別に嬉しくもなんともない言葉。  だけれど予想に反して続いて涼介の唇からこぼれたのはため息だった。 「危なっかしい」 「……へ?」 「知らないひとに絶対ついていったらダメだよ?」 「……は、ぁ?」  小さい子供じゃあるまいし。知らない相手についていくわけないだろう。  戸惑うも妙に涼介の眼差しは真剣でひとまず頷いておいた。 「懐くのは俺だけにしておいてね。美味しいものご馳走してあげるし、相談にももちろん乗ってあげるからさ。先輩のことも仕事のこともね」  テーブルの上に両腕を乗せてわずかに身を乗り出した涼介が言い含めるように続ける。  その声音は心配している色がありありと現れている。  ――涼介は優しい。  それは紛れもない事実で、誰にも言えない秘密を共有している分、涼介の言葉は素直に泉を頷かせてしまう。 「欲求不満解消もいつでも手伝うからさ」 「……」  ほっと気が緩んだのも一瞬だったが。  さっきまでの真摯さはどこへ行ったのか今度は音符でもついていそうな口調で言って、スパニッシュオムレツを頬張っている。 「今度夜ご飯食べにおいでよ。朝ごはんよりもっと豪勢にできるし。ね!」 「……は、はぁ」  目を輝かせ誘ってくる涼介に今度は素直になれない。  またきのうのことのようになったら、と考えてしまえば落ち着きかけていた気分はまた騒めきだして結局このあとずっと泉は挙動不審に狼狽え続けていたのだった。 ***

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