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四十三、久方ぶりの

 教務課の扉を開けて外に出た途端、舜平はがっくりと脱力してその場に思わず座り込んでいた。  卒業論文を、無事に提出したのである。  今日は十二月十七日。  締め切りは二十日だ。三日も早く提出できたのは、我ながら褒められたことであると、舜平は立ち上がって伸びをする。  もう三日あたためてもよかったのだが、これ以上持っておくことにも疲れてしまった。すでに健介からはOKをもらっていたため、すぐに表紙を付けて論文を綴じ、提出したのだ。  ふつふつと、長きに渡って苦しめられていた論文からの開放感が沸き上がってくる。舜平は明るく晴れた空を見上げて、大きく息を吐いた。ふわふわと息が白く曇る。 「提出したのかい?」  不意に背後から、彰の声がした。舜平は声も出せないほどに仰天し、涙目になりながら彰を振り返る。 「お、おまえ……! びっくりするやん!」 「よほど疲れてたんだね。僕の気配に気づかないとは」  彰はにやりと笑って、丈の短い黒いコートのポケットに手を突っ込んだ。すらりとした長い脚に、色の濃いスキニーデニムがよく似合う。足元は黒いショートブーツという取り合わせだ。 「コーヒーでも飲まない? 僕、今まで解剖の授業だったから、鼻がおかしいんだ」 「あ、ああ、そっか。お前、鼻が利くもんな」 「これじゃ外科は辛いかなぁ」  実際、鼻をすんすんと鳴らしながら、彰は少し渋い顔をしている。二人はカフェテリアに向かいながら、人の少ない午後のキャンパス内を歩いた。見事に茂っていた学内の木々も葉が落ちて、やや淋しげな風景だが、その幹や枝にはしっかりと電飾が巻き付いている。もうすぐクリスマスだ。 「論文お疲れ」  舜平の缶コーヒーに自分の缶コーヒーをぶつけて、彰がそう言った。舜平は笑って、「サンキュ」と礼を言う。  外のテラスには、二人だけだった。寒いので当然であるが。 「ようやく自由の身や。あーあ、長かった」  舜平が足を投げ出してそっくり返っているのを見ながら、彰はコーヒーをすする。 「院試はいつ?」 「年明け、十五日や」 「そっか。あと一ヶ月ね」 「しばらくはそれも忘れたいと思う」 「それがいい」  彰は足を組んで微笑む。こうして大学生となった彰と、キャンパス内で過ごすのは初めてだ。舜平はしげしげと彰を眺める。 「大学生活はどうや」 「うん、楽しいよ。変わった人間が多くて、自分がとても普通に思える」 「そうなん? まぁ、この学校の医学部は変人が多いって有名やもんな」 「それでもみんな、人はいいからね。年上が多いし、僕はやりやすいよ。皆可愛がってくれるからね」 「お前のどこに可愛がりたい要素があるんかが謎や」 「失敬な。僕はそこそこに年下スキルっていうものを身に着けているんだよ」 「そのスキル、俺にも使ってみろや」 「面倒だ」 「お前……」  涼しげに笑う彰であったが、すっと笑顔を引っ込めて舜平を見た。 「能登の方が、多少騒がしくなってきたらしい」 「そうなんか?」 「水無瀬紗夜香の母親は相変わらず行方不明だ。でも、妖が騒いでいると現地に出向中の職員から報告があった」 「そっか……やっぱり何か起こるか」 「そうだろうな。一度みんなで、戦闘訓練でもやっておくかなぁ」 「確かに、ここんとこ全然動いてへんしな」 「特に君はずっと研究室に引きこもりだろ? 不健康極まりないな」 「しゃあないやん。サッカーもしてへんし……あーあ、身体が鈍る」 「珠生にも会ってないのかい?」 「え? ああ……せやな。しばらく顔見てへんかな。元気か?」 「湊に聞くと、そう元気でもないみたいだよ」 「え、そうなん? 何で?」 「ここんとこ、どうも落ち着かないらしい。湊にも理由がよく分からないそうだが」 「ふうん……」  前回、実家に泊まりに来た時の珠生の表情も、たしかに冴えなかった。しかしそれは、親子関係の問題であろうと舜平は思っていたが、何か他にまた思い悩むことでもあったのだろうか。  ――気になる。……というか、顔が見たい。  うつむいて黙りこむ舜平を、彰はにやりと笑いながら見つめていた。 「会いたいの?」 「……ちゃうわ」 「無理しちゃって」 「やかましい。……提出期限までは、他のやつの手伝いもしたらなあかんし、俺はまだまだ忙しいねん」 「ふうん、頑張るね、君も」 「みんな揃って卒業したいやんか」 「はは、それもそうだね」  彰は微笑んで、くいとコーヒーを飲み干すと「さてと、五限目が始まるな」と言って立ち上がった。 「ま、気になるついでに、落ち着いたら珠生の様子を見てやってくれ。僕からも頼むよ」 「……おう」 「じゃあね」  彰は三メートルほど離れた先にあるゴミ箱に、しゅっと美しいフォームで缶を投げ込んだ。すぽん、と見事に入った缶を見て、舜平は「おお」と声を上げる。そして彰は、いつものように余裕たっぷりの笑顔を残して消えていった。 「さてと……」  舜平も立ち上がった。あと三日間皆の手伝い、そしてその後の打ち上げをもって、卒業論文制作は終了だ。  ――珠生に会うのは、それから、やな……。  舜平は改めて気を引き締めると、今頃研究室で泣きべそをかいているであろう仲間たちのもとへと足を向けた。きっと一緒になって健介も泣きべそだろう。  授業の入れ替わりの時間で人が多くなってきたキャンパス内を、舜平は早足に進んだ。  +  +    珠生は荷造りをしていた。自分のものではない、健介が千葉へ行くための荷物をまとめているのである。  卒業論文の締め切りは、二十日の午後五時ちょうど。その瞬間を見届けた後、自分はすぐに帰宅して千葉へ行くと言い出したのである。  何でも、受験勉強で苦労している千秋がさんざんわがままを言って、健介に勉強を見て欲しいと訴えているからだそうだ。勉強は口実だろう。優しい父親に甘えて励まして欲しいのだろうと、珠生にはすぐに分かった。  珠生はまだ学校があるため、千葉へ帰るのはもっと後になるが、すでに大学進学が決まっている珠生を見れば、千秋はきっと渋い顔をするだろう。これに備えて高校受験時にハイレベルな学校を受けたのだから、文句を言われる筋合いもないのだが。  今日は二十日だ。時刻は午後五時過ぎ、おそらくもうすぐ健介は帰ってくるはずだ。  ボストンバッグのジッパーを締めて、それを玄関先に置いておく。どこまでも世話焼きだな、と自分で感心してしまう。  +  簡単な夕食を食べさせてから健介を送り出し、珠生はやれやれとソファで寛いでいた。まるで子育てでもしているような気分だった。  自分も食事を済ませて明日の予習をし終え、のんびりソファで寛いでいると、インターフォンが鳴った。時刻はもう二十三時だったが、珠生は驚かなかった。 「よぉ、珠生」  玄関先に立っていたのは、舜平である。酔っているらしく、少しばかり赤い顔をしていた。  卒論提出日が今日だということは当たり前のように知っていたし、舜平がひょっとしたら顔を出しに来るのではないかということも、なんとなく想像していた。むしろ、そうして欲しいと思っていた。  珠生はすっと身体を避けて、舜平を部屋の中へ迎え入れた。 「酒臭い。打ち上げだったの?」  迷惑そうに顔をしかめる珠生を見て、舜平は笑った。 「さすが、知ってたか」 「どうせ、父さんがすぐに千葉に行く事も知ってたんだろ?」 「おう、緊張してはったからな」 「コーヒーでいい?」 「サンキュ」  ソファに座った舜平に、とりあえず水を渡した。それをぐびぐびと飲み干して、舜平は美味そうに息をつく。 「もう終わったの? 飲み会」 「みんな寝不足でぼろぼろやからな、年末にもう一回するねん。今日は、とりあえずの打ち上げや」 「ふうん。舜平さんは提出も早かったらしいね」 「ああ、もう持っとくんも嫌やったからな」 「大変だね。でも、お疲れ様」  珠生にコーヒーをもらうと、香ばしくいい香りが舜平の意識をすっきりさせる。ソファの端の方に座った珠生は、久しぶりに見る舜平を物珍しげに眺めている。 「……何や」 「いや、久しぶりに見るなぁと思って」 「男前でびっくりしたか」 「何言ってんだよ、この酔っぱらい」  つんとした珠生の口調に、舜平はまた笑った。わしわしと頭を撫でられ、珠生はちょっと顔をしかめる。 「お前、ここんとこ元気なかったらしいやんか」 「……えっ? そんなこと……ないけど……。てか誰に聞いたの?」 「彰や。彰は湊と定期的に連絡を取り合っているらしい」 「ふうん。そうなんだ」  珠生はソファの上で膝を抱えると、小さめの音で点いているテレビを眺めた。画面を見てはいるが、内容を吸収している様子はない。  久しぶりに見る珠生は、髪が伸びて少し大人びて見えた。物憂げな表情でのんびりとした旅番組を眺めている様子はどこか笑いをも誘う状況だが、何か色々あったことは見て取れる。 「……まぁ、大したことじゃないよ。いつものくよくよ病さ」 「そうなんか?」 「うん。球技大会と文化祭と続いてたし、忙しかったからそう見えただけじゃないかな」 「ふうん。今年はどうやったん」 「……去年のほうが楽しくはあったかな。今年はとにかく、仕事が多くて」 「そっか。お前ももう高三やもんな」 「うん、京都に来て三年……。気づけばもうすぐ、卒業だ」 「ほんまやな。そう思って見ると、お前もちょっとは男らしくなったんちゃう?」 「そうかな」 「背も、ちょっとは伸びたやろ」 「まぁ、高一んときに比べたら……」  珠生はソファの上で、舜平にぎゅっと抱きついた。突然の行動に舜平は戸惑うものの、久しぶりに感じる珠生の体温と匂いにホッとする。  珠生の背中に手を回して抱き返しながら、ふわりとした甘い匂いを深く吸い込む。頬に触れるサラリとした髪の毛が、くすぐったい。 「……あぁ、舜平さんの気だ」  珠生はソファの上で舜平に抱きつきながらそう言った。呼吸をしながら舜平の気を吸っているのか、心地よさそうに息をつく。 「……なんか……満ちるって感じがする。俺、乾いてたのかな……」 「ちょっと気が淀んでるな。最近、妖も出てへんから、力使ってへんもんな」 「うん……」  舜平にそう言われ、珠生は身を離してソファに座り込んだ。伸びた前髪を分けている珠生の額に触れ、そのまま頬に掌を添えた。 「……舜平さん」 「ん……?」 「舜平……さん」 「なんや」  舜平は物言いたげな珠生の両腕を掴んでソファに押し倒すと、美しく整った顔をじっと見下ろした。珠生はすでに少し涙目で、舜平をひたと見上げている。  舜平はゆっくり顔を近づけると、珠生の唇にそっと触れた。微かに触れる程度の軽い口づけにも、珠生は熱いため息を漏らす。  珠生の腕が舜平の首に巻き付き、ぐいと引き寄せられる。珠生の舌が舜平の中に入ってくる感覚に、舜平の理性が音を立てて崩れ始めた。  こうして舌を絡めることすら久しぶりだった。珠生の熱い吐息も、肌理の細かい吸い付くような肌も、舜平を煽るような淫靡な動きも、全てが舜平を駆り立てる。 「はぁ……っ……んっ……」 「珠生……」  濡れた音を立てて絡み合うふたりの唇が、唾液で光る。珠生が漏らす嘆息が、たまらなく舜平を興奮させる。 「……珠生」  耳元で名を囁き、シャツの中で手を滑らせるだけで、珠生は悶え喘いだ。舜平は珠生を抱え上げると、開いていたドアから珠生の部屋へと入り、荒々しくベッドにその身を押し付けた。  軋むベッドのスプリングの音が、珠生の耳に小さく響く。  

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