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四十五、幻術に堕ちる
千珠は忍装束に身を包み、闇に紛れて立っていた。
ここ数日、青葉の結界を騒がす妖の気配が、未だにちゃんとつかめずにいる。今まで、こんなことは一度もなかった。
佐為によって成された強固な結界と、感知に優れた宇月の力、そして何よりも千珠の嗅覚をもってしても、その妖の正体が分からないのだ。
千珠は三津國城の天守閣の上に立ち、じっとその気配を伺っていた。風なりの音が、千珠の耳元を吹き抜けていく。
「寒い……」
呟いた声も、風の音と闇の色にかき消されるようだった。ふと背後に気配を感じて、千珠は振り返る。
「今夜は静かですね」
柊の長子、白蘭 が立っていた。齢十五になった彼は、柊の面影を強くその顔に写すようになり、背丈もすらりと伸びて、千珠とは体格がそう変わらないほどにまで成長していた。
あの盗賊との戦いからがらりと様子の変わった白蘭は、進んで修業に励み、着実に力を伸ばしてきている。人徳もそれに比例して身に着いてきているため、現忍頭・朝飛の次は、この白蘭が忍頭になるであろうという話が既に持ち上がっているほどだ。
そんな白蘭を見て、千珠は口布を下ろして微笑んだ。
「何だ、お前まで出張ってこなくて良かったのに」
「そうもいきませぬよ。寒がりの千珠さまがこうして見張りに立っておいでなのに、僕だけぬくぬく布団に入ってはいられませぬ」
「律儀なやつ。対して柊は布団の中か?」
「いいえ、起きておいでですが、火鉢のそばにおられます」
「……あいつ」
瓦を踏んで千珠の隣に立った白蘭は、暗い夜の街を見下ろした。涼し気な目元を忍装束から覗かせて、油断なく気を配っている。
「一体、何なのでしょうね。この青葉に不審な妖が現れるとは」
「……宇月が言うには、おそらく誰かの式であろうということだ。だから気配も掴みにくい。それに、術者が術をといてしまえば、そいつは消えて痕跡も残らない」
「式……ですか。でも、何のために?」
「さぁね。しかし、その術の残滓さえ掴み取れないのが妙だ。よほどの手練 であろうと宇月は言っていた」
「それじゃあ、尚更危険じゃないですか」
「だからこうして俺がここに立ってんだろうが」
と、千珠は寒そうに両腕を抱きながらそう言った。
齢三十四になった千珠であるが、白蘭の目にはその姿は自分が幼い頃とさほども変わっていないように見える。これが鬼の血のなせる業なのか、今でも千珠は国一番の美女よりもずっと美しい。
そんな千珠にも三年前に二人目の子が生まれていた。宇月の肉体を傷つけるほどの妖気を帯びて生まれた珠緒に対して、今度生まれた子は女であり、安産だったという。珠緒もすでに齢七つになり、全く喋らなかった頃が懐かしいほどにおしゃべりだ。
「千珠さまを狙ってのことでしょうか」
「まさか。俺を狙うなど、自殺行為だな」
「じゃあ、誰を……」
「殿か、その御子か」
「なるほど……」
「あるいは、俺の子どもたち」
「え?」
千珠は白蘭を振り返り、暗がりでも星のようにきらめく美しい目を向けた。慣れていても、思わずどきりとしてしまうほどの美しさだ。
「俺をやるには、俺自身をどうこうするよりも、家族を盾にとったほうが手っ取り早いからな」
「脅迫、ですか」
「そうだ。だから今は、下に舜海と山吹もいる。雪代も」
「そうですか……」
「俺は戦で人を殺しすぎた。それに妖の中には、鬼である俺が人に与 していることを快く思っていないものも多い」
「そう、ですか……。千珠さまは、この国の守り神といってもいい存在なのに」
白蘭の言葉に、千珠はまた微笑む。
「良い教育受けてんな、お前は」
「はぁ」
この緊張感漂う場にそぐわない千珠の軽い口調に、思わず気が抜けてしまう。
「お前らがそう思ってくれているのなら心強い。俺はただ、この国を守るだけだ。誰が来ようともな」
千珠は頭巾を外して長い銀髪を晒しながら、白蘭に勝気に笑って見せた。きらきらとかすかな星明りをうけて煌めく千珠の銀糸と、白い肌が夜闇に浮かび上がる。
その美しさ、強さ、そしてその自信たっぷりの言葉が、白蘭は身震いがするほど誇らしかった。
「はい……!」
千珠は髪を掻きあげて再び空を見上げた。
かすかに、人外の者の匂いが漂ってきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「……千珠さま」
――誰……だ?
「こんなところにおいでか。たったお一人で……しかもこんなにも、無防備な姿で……」
――え……何?
女の声に、珠生は微かに目を開いた。ストーブの焚かれた暖かい保健室で眠っていたと思うのだが、そこはひどく寒く、そして身体が思うように動かせなかった。
霞む視界の中、黒く長い髪に縁取られた白い女の顔がぼんやりと見えた。
珠生は目を見開いて、息を呑む。
「……誰だ」
女は不気味に微笑んだ。顔は紙のように白く、長い黒髪はぱさぱさと乾いていて、あちこちに白髪が見える。
何よりも、その蛇のような目が珠生をぞっとさせた。冷たい、体温の通っていないような冷たい目。そして、今にも赤く細い舌が除きそうな薄笑いの唇。
「……いつぞやは、娘がお世話になりました。やはりあの子では……あなたを使役するのは無理な様子」
「使役……? お前、まさか祓い人の……!」
珠生は反射的に身体を起こそうとしたが、まるでベッドに縛り付けられているように身体が動かない。はっとして手首を見ると、黒黒とした蛇のようなものが手首に絡まり、白い目がじっと珠生を見据えている。
「……なっ……! これは!」
「ふふ……祓い人の術は、見たことがございませんか」
「なんで……ここに!?」
「私は貴方が欲しいのです。その力を我が物にできたなら、私達一族、怖いものは何もなくなる……」
「何を……!」
「それに……何とお美しい姿。古文書のとおりですわ」
冷たい指が、珠生の頬に触れた。ゾッとした珠生は、ぎゅっと拳に力を込めて妖気を解放した。
「……これはっ……」
ぶわりと燃え上がった珠生の青白い妖気に、その女は思わず身を離した。珠生が力づくで手首や足首の枷を外すと、ぼたぼたっと嫌な音を立てて蛇たちが千切れて消えた。
「……素晴らしい」
ベッドの上に起き上がった珠生を見て、女は更に唇を釣り上げて笑った。心底楽しげな笑い声が、不気味で仕方がなかった。
「しかしそんなものでは……私の結界から出られない」
「なんだと?」
珠生は視線を巡らせ、ベッドを仕切っていたカーテンを全て開いた。淡いピンク色のカーテンの向こうは、平和な保健室があるはずなのに、そこは冷たい白波が砕ける、崖の上だった。
轟々と吹き付ける冷たい海風と、暗い曇天の空、強い風に煽られては岩にぶつかって砕ける、白い波。頬が痺れるほどの冷たい風を受けて、珠生は目を見張った。
「な……なんだこれは……!」
「……この景色に見覚えはありませんか……千珠さま」
「これは、能登……」
「そう、あなたが雷燕を封じたあの時代の、あの国の風景です。懐かしいでしょう?」
「どういうことだ」
「我々は、雷燕の封印を解きます。そして、彼を使役し、あなたをもこの手に入れる」
――何……?何を言っているんだ……?こいつは……。
あまりのことに、珠生は表情を凍りつかせたままにその女を見た。
女は、まるで宙に浮いているかのように、荒れ狂う波の上に事も無げに立っている。ばさばさと風で乱される黒く長い髪と、同じ色のスカートがはためいているのを見ると、そこに吹く風は本物なのだろうか。
「祓い人に……そんな事ができるはずがない」
「何を根拠にそう仰るのです。雷燕はまだ、力を封じられている状態です。……それならば、私にも扱える」
「雷燕を……!? あいつをそんな風に使うな! 再び憎しみに貶すつもりか!」
「妖とは、そういうものでしょう? あれほどの力を持つ妖を、そのまま眠らせておくなんてもったいないでしょう。我々があれを使って何が悪いのですか?」
「何を言ってるんだ……! あいつは、雷燕は、あの国を守って……!」
「じゃあ、雷燕に襲われ子を孕み、気が狂った女はどうなるのです? 哀れにも自害してしまった祓い人の女は、どうなるのですか」
女の顔から笑が消えた。蛇のような目を細めて、その女はじっと珠生を睨みつける。
「それは……お前たちが彼の地を荒らしたからだろう」
「私たちは私達の仕事をしたまで。実際そうして、我々は平和に暮らす能登の者たちを守ってきたのですよ。……それを、妖側に正義があるように言われては、たまったものじゃありません」
「だからといって、現世でそんな事をして何になるっていうんだ! なぜ今になって、そんなことを……!!」
「そうですね、何ででしょうね……」
女は、またニヤリと唇を釣り上げた。
「別に、これといった理由はありませんよ」
「じゃあ、何で……」
「嫌いなんですよ、あなた達が。理由を言うなら、そういうことです」
「嫌い……って」
「陰陽師衆の系譜を継ぐ宮内庁の能力者どもも、あの頃国を守っていると堂々と公言していた青葉の者も……そして、半妖の分際で国の守護神づらをしていた、あなたも」
「……っ……」
女は顎を上げて目を細め、いかにも憎々しげに珠生を見下ろした。尚も吹きすさぶ凍てつく海風が、珠生の全身から感覚を奪っていく。
その女の言ったこと……それはかねてから、千珠が気に病んでいたことのひとつでもあったからだ。
「いつもいつも、正義はあなた方のもとにあると言い張って。いつもいつも、我々を悪と言い続けて。一体、何を根拠にそんな事を言うのか。あなた方のあの正義の味方づらを見ていると、虫酸が走るのです」
「……」
「無性に腹がたってね、我慢がならなくなるのですよ……あなた達が、本当に、憎らしいのです」
「だから……また、騒ぎを起こそうというのか」
「そうですよ。単純な理由で、分かりやすいでしょう?」
目つきを鋭くした珠生は胸の前で合掌し、すっと輝く宝刀を抜いた。女はそれを見て、また目をきらめかせる。
「それが……千珠の宝刀」
「ここでお前を斬って、終 いだ」
珠生が宝刀を構えてベッドの上に立ち上がると、女は一歩身を引いて、ニヤリと笑う。珠生が足を踏み込むと、ぎし、とベッドが軋んだ。
「あらまぁ、何と人らしくない言葉遣いでしょう。私はれっきとした人間ですよ、殺せば……どういうことになるか分かりますよね」
「……」
珠生は女を睨みつけたまま、ぎゅっと宝刀を握り締める。珠生の目に宿った鋭い光が、本当に自分の命を狙っていることを察した女は、じりりとまた後退する。
「……しかしまぁ、今日は挨拶にきたまでですので」
女がにたりと笑うと、風が一層強くなり、波が更に高くなった。吹きすさぶ突風に珠生は思わず膝をつき、襲い掛かってくる波から目を庇う。
うねり狂っていた黒い波が、みるみる黒い蛇に変化していく。ぬるついた黒い蛇が無数にうごめくグロテスクな風景に変わっていく。その光景のあまりのおぞましさに、珠生の全身が総毛立つ。
「な……っ」
「またお会いしましょう……千珠さま」
「ま……待て!」
「ふふ……ふふふ……」
無数の蛇が、身を踊らせて珠生に襲いかかってきた。宝刀で切り裂いても切り裂いても、蛇は身をくねらせて珠生に飛び掛かってくるのだ。ベッドから飛び退くと、じゃりっとした砂地の感覚が、靴下裸足の足の裏に感じられた。手をついたところも、冷たい砂利や岩の感触だ。
崖を這い上り、珠生のいる地面の上にまで、無数の蛇が押し寄せる。蛇の虚ろな白い目が、珠生を無表情に捉えている。
「くそっ……! なんだこれは……!! くそっ……!!」
「おい、珠生!! しっかりせぇ!!」
「離せ!! 何なんだ……これ!!」
「珠生!! どうしたんや!!」
珠生ははっと目を開けた。そして、自分の傍らにいた誰かの身体を、思い切り突き放す。だんっと重い音がした。
窓枠に身体を強かにぶつけて呻いている人物に向かって、珠生は本能的に飛びかかっていた。殺意を持って首を捕らえ、そこにいた誰かに拳を振り上げた途端、珠生ははっとした。
「……湊」
珠生の右手に首を絞められて呻いているのは、柏木湊だった。弾き飛ばされ、激突した湊の背後の窓ガラスに、細くヒビが入っている。
「た……まき……」
「あっ……!」
思わず手を離すと、ゲホゲホと咳き込みながら湊が床に膝をつく。慌てて湊の側にしゃがみこむと、珠生はぎゅっとその身体を支えた。
「ごめん……俺……! ごめん……!!」
「ど……どうしてん……? お前……」
「幻術……?」
手首を見ると、はっきりと締め付けられた跡が見えた。珠生はぞっとして、自らの掌を見下ろす。
「……湊、ごめん。俺……」
「ええて……それは。でも……何があったんや」
湊は身を起こして、苦痛に顔を歪めながらも珠生を気遣う目をしていた。そんなどこまでも優しい湊を、珠生は思わず抱きしめた。
「湊……!」
「……珠生、どうした」
「幻術を、くらったみたいだ」
「え……」
「水無瀬紗夜香の、母親だ。あいつ……雷燕の封印を解くって言ってた」
「何やって……」
「知らせないと……藤原さんに」
「……せやな。それはこいつにやってもらおう」
湊は喉を押さえて立ち上がると、あたりに人がいないのを確認してとある名を唱えた。
「蜜雲。いるか」
「え?」
「はい、お呼びでしょうか」
突如現れた明桜高校の制服を着た女子生徒に、珠生は仰天した。くりっとした大きな目をした可愛らしい女子高生だが、その身にまとう獣じみた匂いに、珠生はきつく眉を寄せる。
「……狐?」
「さすがは千珠さま、よくぞ見破られました」
と、女子高生らしからぬ口調で蜜雲はそう言った。
「先輩の使い魔や。俺、前もって紹介されててん」
「そうなんだ。……え、ずっといたの?」
「はい。しかとこの目で拝見しておりました」
「外からはどうなってた」
珠生の問に、蜜雲は辺りを見回しながら説明し始める。
「千珠さまの気が乱れたので、すぐに駆けつけましたところ、この部屋全体に結界術が施されておりまして、中の様子を窺い知ることはできませんでした。わたくしは数多の術を会得しておりますが、それでも破ることのできない、特殊な結界術でございます」
「祓い人の術か」
と、湊。
「おそらくは。……何をしても破れませぬゆえ、佐為様にお助け願おうかと思っておりましたら、みるみるその術が溶けていくように消えていき、湊様がここへやってこられたというわけです」
「……昼休みやから、起こしたろと思って。お前がここにいるって、本郷と空井が教えてくれててん」
「あぁ……そっか」
「さらにこの部屋の周りには人払い結界も施され、人が来ぬように念じてありました。大した手の込みようでございます」
「……今日は挨拶だって言って、さっさと手を引いて言ったように見えたけど……」
珠生は締め上げられた手首の跡をさすりながら、辺りを見回す。昼休みの喧騒が、えらく遠いものに感じられた。
この学校には、彰が施した結界術が張ってある。それを乗り越え、タイミング良く珠生が一人になった隙を狙って攻めてきたということは、ずっとこの学校の様子を見張られていたということだろう。
「くそ……気づかなかったなんて」
と、珠生はぐっと奥歯を噛み締める。
「私、佐為様のご命令でこの学校をずっと見はっておりましたが、不審なものはおりませんでしたがねぇ……」
「じゃあ、たまたま運良く俺を襲えたっていうのか?」
珠生の苛立った口調に、蜜雲は無表情に首を振った。
「まぁ、ごくごく力の弱い使い魔を潜り込ませることは可能でしょう」
「じゃあいつでもどこでも、見張られていたってことか、俺達は」
と、湊が眼鏡を押し上げながらそう呟くと、珠生はため息をついた。
「油断してた」
「……私、佐為様と藤原様にご報告致して参ります」
蜜雲は慇懃にお辞儀をして、そのまますっと消えた。珠生は目を瞬かせ、文字通りどろんと消えた蜜雲のいたあたりを見回す。
「……湊、背中は?」
「ああ……大丈夫やと思うけど……」
「湿布もらおう。すごい音してたから、多分怪我してるよ。あ……ガラスも割れてる」
「知らん顔しといたらええやろ」
湊のシャツをめくり上げ背中を見てみると、ちょうど窓枠の形に赤く腫れた傷があった。珠生は眉を寄せて湿布の袋を空けると、惜しげも無くぺたぺたと湊の背中に貼っていく。
「つめてっ」
「ごめん……ほんとに」
「ええって言ってるやん。気にすんな。それより、何やったんやろうな」
「……果たし状つきつけられたって感じだったな」
「そうか……」
「北陸の方に人員回すってこないだ言ってよね。……それで、勝てる相手なのかな」
「……分かれへん」
湊はシャツを直しながら身体の向きを変えると、長椅子に座っている珠生とまっすぐ向かい合った。二人してベンチに跨るような格好で座っている。
「珠生。お前は変に焦るなよ。能登の件については、千珠さまが先走って、我々に迷惑をかけたという前歴もあるんやからな」
「……う。分かってるよ。それに、昔みたいに走っていけるわけでもないし」
「お前ならやりかねへん」
「信用ないな」
「まぁ……とりあえず、授業行こか」
ざわざわとした本来の学校の気配の中に戻り、珠生はようやく安堵していた。バタバタと廊下を走って行く体操着姿の後輩たちや、教室移動でうろうろと歩き回っている同級生たちの平和な顔を見ていると、珠生は今までの出来事が夢ではないと言い切れるのだろうかと、少しばかり不安になってきた。己の不安が見せた、ただの夢ではないのかと。
しかし、あの女の恨みの言葉が、耳にこびりついて離れない。
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