261 / 530

四十六、宮尾邸の様子

 相手の頬骨を砕いて、拳がめり込む。そのままの勢いで腕を振りぬくと、学ランを来た大柄な男の体が吹っ飛んだ。周りで見ていた四人の少年たちが、唖然としている。  重たい音を立てて屋上のコンクリートの上に横たわった男は、ぴくぴくと痙攣しながら、意識を失った。 「……なんだよ、もう終わりか?」  織部深春は、呼吸ひとつ乱さずにそう言った。 「つ、つえぇ……」  倒れた男の後ろで、一人の少年が呟いた。皆深春と同じ制服を着ている、宇治政商高校の生徒たちだ。  コンクリートの地面で伸びているのは、今の今までこの学校で頭を張っていた大柄な男子生徒である。一年生のくせにちゃらちゃらと目立っている深春をしめてやろうと呼び出していたのであるが、逆にやられてしまったという次第だ。  因縁をつけられ、かかってこいと言われたのでかかっていったが、深春は一発しか殴っていない。それで決着がついてしまった。 「先輩たちはやんねぇの? 俺、まだまだいけるけど」  深春はポケットに手を突っ込んで、腰の引けている三年生達を睨みつけた。ひと睨みしただけで、三年生達は震え上がり、倒れている生徒を抱え上げ、いそいそと逃げていってしまった。 「朝っぱらから呼び出しといて、こんなもんか? このクソさみぃ中出てきてやったってのに」  誰もいなくなった屋上に、強い風が吹く。深春の黒い癖っ毛を髪を乱して、真冬の風が通りすぎていった。天気はよく太陽も輝いているが、真冬の昼間はやはり寒い。 「……つまんねぇな」  深春は呟いて、ごろりとそこに横になって空を見上げた。  喧嘩は昔から強いほうだったが、この力が目覚めてからは、「普通の人間相手には滅多なことでは拳を上げるな」と、珠生に散々言われている。今回は身を守る為だったと自分に言い聞かせながら、自分の拳を見上げる。  人間は脆い、と思った。   そしてもはや自分が、普通の人間ではないということが、はっきりと自覚する。  以前の深春なら、あれくらいの体格の男であれば、もう少し手こずっただろう。しかしほんの一撃、しかもかなり手加減をしての一撃で、あの男の骨はまるでビスケットでも砕くような感触で壊れてしまった。  怖い、とも思った。自分の力が、ここまで常人離れしているとなると、深春が壊せるものはかなり大きくなってしまう。  以前、やくざ者を珠生が一瞬でのしてしまったことがあったが、多分今の自分なら、あれくらいのことは出来るだろう。実際、珠生の力はどれくらいなのだろう。喧嘩したら、どうなるのかな……。と、深春はぼんやり考えた。 「また喧嘩か?」  のんびりした声がして、深春は首だけ起こしてその相手を見た。吉田瑛太が立っていた。  以前、水無瀬紗夜香に言いくるめられて珠生を襲うように仕向けられた、高校生の一人だ。瑛太は今も霊力を持ち続けており、深春とは同じ物が見える。そのため、瑛太と迅鉄、そして紗夜香には、一種の運命共同体のようなつながりができていた。 「……瑛太さんか」 「あんまりやると、また水無瀬さんが珠生さんに言いつけるんちゃうか」  瑛太はごろりと深春の隣に横になって同じように空を見上げながら、そう言った。深春は鼻を鳴らす。 「紗夜香さんは珠生くんと喋りたいだけだろ。俺の悪事なんかネタだよ」 「ははっ、確かに」  瑛太が笑うと、深春も唇を歪めて笑う。タバコが吸いたかったが、この一つ上の先輩も、喫煙に関してはひどく怒るのでやめておく。 「瑛太さんもサボりか?」 「アホ、俺は自習や。もうすぐ終業式やしな。ええ天気やからここに来てみたら、自称頭のスズキが担がれて行ったから何事かと思って」 「未だにそんな頭だボスだ言ってる奴がいるなんて、驚きだね」 「せやろ、ここはまだまだ、古臭い土地やねん」 「……ふん」  のどかに鳥の声が響く。深春は目を閉じて、じっと平和な空気と清々しい風を感じていた。  あれから、以前のように藤之助のことを恋しいとは思わなくなっていた。今自分が立っている場所こそが、今の現実なのだと、はっきり理解できつつある……そう感じている。  それでも、父親のことを思い出さない日はなかった。ひどい仕打ちを受けてきたのに、どうしてこうも情が湧くのかと、自分でも不思議だった。一度、藤原に時間を取ってもらう必要があるかな……と深春は目を閉じたまま考える。 「深春はほんまに強いねんな」 「……まぁな」 「あれでもだいぶ手加減したんやろ?」 「そりゃあな。本気出したら、殺しちまうから」 「……すげぇな」 「大丈夫、俺は心優しいからよ」 「そやったな。たしかにお前は、意外と優しいやつや」 「だろ?」  瑛太が起き上がって、うーんと伸びをする。深春はそんな瑛太の鋭く整えられた眉と、それに合わせたかのような鋭い一重まぶたの目を見上げた。 「水無瀬さん、最近ぴりぴりしてるやろ」 と、瑛太。 「そうかぁ? 気づかなかった」 「あの人の母親、富山で行方不明だったんやけど、見つかったらしいねん。でもまた、すぐに消えてしまったとかで」 「……母親」 「ずっと連絡も取れてへんかったらしいしな。興味ないとか言うてはったけど、やっぱり心配そうやった」 「そりゃ、母親だろ? 俺はよく分かんねぇけど、やっぱ親なんだから心配すんじゃねぇの?」 「まぁな。水無瀬さんの場合、口ではあんな女、とか強いこと言いつつ、顔が全く付いて行ってへんから分かりやすいねんけどな」 「あぁ、たしかに。あの人隠し事できねぇもんな」  人には到底言えない秘密を共有し、なんだかんだと仲良くしている四人だ。深春はちょっと笑った。 「気をつけろって、言ってたで。お前は妖気持っとるから、またちょっかい出されるかもしれへんからって」 「……ちょっかいねぇ。この俺様にね」 「きっと、変な術使ってきはんで。前、珠生さんやったときみたいな」 「あぁ……そっか」 「じゃな、俺は戻る。お前もはよう、教室戻らな怒られんで」  黒いズボンの尻を払いながら、瑛太が立ち上がって深春を見下ろす。深春も起き上がってあぐらをかくと、頷いた。 「へいへい」 「先生にちゃうで、珠生さんにやで」 「……それはまずいな」  深春は苦笑して立ち上がった。  珠生にも、ここ二、三週間会っていない。学期末で、彼も試験だなんだと忙しいらしいことが、亜樹の生活を見ていれば分かるのだ。  ――そいや、亜樹ちゃんも最近、元気ねーな……。  帰ったら亜樹の話でも聞いてやろうかな……と思いながら、深春は階段を下る。  + 「おかえり、深春ちゃん」  いくら言ってもちゃん付けを直さない柚子は、いつもにこやかに深春を出迎えてくれる。つい照れてしまう深春は、ふてくされたような顔で帰宅するのが常である。 「すぐご飯食べれるわよ」 「おう。今日何?」 「焼肉。体力つけなあかんからね」 「体力? 俺、バリバリ体力あるけど?」 「亜樹ちゃん、最近元気ないでしょ?」 「あぁ……確かに」  同じ事を考えるようになったあたり、少しずつ自分もこの不思議な共同体の一員になれているのかなと、深春はふと考える。  そういえば、玄関にはすでに亜樹のローファーが無造作に置いてある。 「恋でもしてんのかね」 と、深春が靴を脱ぎながらそんなことを言うと、柚子はふわりと微笑んで、「深春ちゃんも色っぽいこと言うねんなぁ」と言った。 「うるせぇなぁ。早く食おうぜ」 「はいはい、亜樹ちゃん呼んできてね」  笑いながらキッチンに消えていく柚子の背中を見ていると、なんとなく昼間瑛太が言っていた言葉が蘇る。  母親。  自分には、遠い存在。どこにいるのかも、どんな顔をしているのかも分からない、自分を産んだ人のことを思う。  藤之助への郷愁にも似た思いは落ち着いたものの、やはり考えてしまう家族のこと。自分の血が、どこから辿ってきたものなのか……根っこが欲しいと思うような気持ちは、ずっと深春の中から消えないでいる。  亜樹の部屋をノックし、「飯だぞ」と伝えてから自室へ入ると、制服を脱いで部屋着になり、もう一度亜樹の部屋の前に立った。物音がしないので、もう一度ノックをする。 「おい、亜樹ちゃん。飯だってば」 「……分かったって」  がちゃ、とドアが開き、どんよりとした空気を背負った亜樹が出てくる。深春はぎょっとして、一歩身を引いた。 「どうしたんだよ! 影背負っちゃって!」 「……えぇ? あぁ、ちょっと、疲れてるだけや」 「嘘つけ、悩みでもあんだろ。俺が聞いてやるよ」 「……深春がぁ?」  じろり、凄みに満ちた亜樹の目線を、深春はたじろぎながらも受け止めた。亜樹は何度か瞬きしてから目をそらし、先にダイニングへと歩き出す。 「……ほんなら、聞いてもらおかな」 「お、まじで?」 「めっちゃ怖い話やで。覚悟はいいか」 「……お、おお。望むところだ」  深春はごくりと唾を飲んで、小刻みに頷いた。  

ともだちにシェアしよう!