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五十一、卒展へ

 亜樹を迎えに行く車内、舜平はじっと黙り込んでいた。珠生は亜樹にメールでもしているのか、ぽちぽちと携帯をいじっている。 「……あいつさ、あのでっかい方のやつ」 「え? ああ、優征がどうしたの?」 「……いや……。お前、あいつになんかされたりしてへん?」 「なんかって? 別に何もされてないけど」 「そうか、ならいいねん」 「……?」  珠生が小首を傾げているのを目の端に捉えながら、舜平は黙って車を走らせた。ほどなく、宮尾邸の屋根が見えてくる。  宮尾邸の前で、亜樹はすでに待っていた。デニム地のミニスカートに黒と白のストライプ柄のタイツを履き、ごつめのブーツを履いている。そしてアウターは、まるで小さな羊のような、もこもことした素材の白いダウンジャケットだ。毎回、私服が意外と可愛いことに驚かされる。 「おはよ、二人とも。舜兄、久しぶりやな」 「おう、元気そうやん」 「うん、まぁまぁ平和に暮らしてるわ」 「そっか。ほんなら行こか」  舜平と亜樹が久しぶりに色々としゃべっているのを聞きながら、珠生は窓の外を眺めていた。確か二年前も、こうして舜平と共に芸大へ行ったのだった。  亜樹は初めて来る芸術大学の雰囲気を、楽しげに見回していた。あちこちに置かれたオブジェや絵画を見ては、舜平の適当な説明に声を立てて笑っている。そんな二人を眺めていると、平和だなと感じてしまう。今だって、水無瀬の母親がどこで見ているともわからないというのに。 「沖野、どうしたん、ぼーっとして」 「え? ううん、なんでもないよ」  歩みが遅れていた珠生を、二人が振り返って待っている。芝生の敷き詰められた美しいキャンパスの中、珠生は二人の元へ駆け寄った。 「おお! 舜平! 珠生くん!」  革ジャンに皮のパンツ、皮のブーツ、更に大きなサングラスという真っ黒ないでたちの北崎悠一郎が、三人のもとに駆け寄ってきた。亜樹は目を丸くして、ロックないでたちの悠一郎を見あげている。 「あれ、この子は?」  軽く息を切らしながら、悠一郎は亜樹を見た。サングラスで伸びてきた前髪を押さえるように挿すと、好奇心に染まった色の目がそこにある。 「学校の友達だよ。天道亜樹さん」 と、珠生が悠一郎に紹介するので、亜樹はぺこりと頭を下げた。 「へぇ、何や君もオーラあるな。あ、俺は北崎悠一郎です。珠生くんにお世話になってます」 「はぁ」  悠一郎はしげしげと亜樹を見て、立っている彼女の周りをぐるりと眺め回しながら歩く。亜樹は困惑した顔をして、珠生を見た。 「カメラマンだから、許してあげてよ」 と、珠生は苦笑いだ。 「いや、ほんま。何やろうな。亜樹ちゃんやっけ、ええ雰囲気持ってはるわ」 「え?」 「なんか珠生くんと似てる。何でやろうな」 「……」  いつも異様に鋭いことを言ってくる悠一郎に、珠生と舜平は顔を見合わせる。舜平は悠一郎の気をそらすように、その肩をバシバシと叩いた。 「まぁまぁ、それより、はよう作品を見せてくれよ」 「あ、そうやな! こっちこっち」 「割と元気そうやん。俺は卒論終わったとき三キロ痩せたで」 「まじでか、俺は太ってん。サッカーしてダイエットせなあかん」  二人は仲良くそんな話をしながら、先に立って歩き出す。亜樹と珠生は並んで二人について行く。 「なんでカメラマンと知り合いなん?」 と、亜樹は不思議そうだ。 「二年前かな、鴨川でスカウト……っていうのか、声をかけられて。君のことを撮りたいって」 「へぇ、ナンパみたい」 「あんな見た目だから怪しいだろ。でも舜平さんの友だちだって言うから、一回くらいいいかなって。そしたら意気投合しちゃって」 「ふうん。あんたほんまに舜兄と仲いいな」 「うん……まぁね。付き合い長いから」  例年通り、学内のカフェの中に写真科の展示スペースが設けてある。今日も天気がよく、アクリル板張りで明るい光の入ってくるカフェの中は、明るく開放的な雰囲気だった。穏やかな音楽が流れ、ちらほらとのんびり写真を眺めている人たちが風景のように馴染んでいる。 「今年もやってんのか、これは」  二年前にも見た、カメラをぽつんと置いている作品を見て、舜平は呆れたようにそう言った。悠一郎は苦笑して、「三年連続やで。毎回タイトルは違うねんけど」という。今年のタイトルは、”苦悶”だった。 「スランプにでも陥ってるの? てかこの人は写真撮るんですか?」 と、珠生も不思議そうだ。 「撮る撮る。こいつは主に工場跡とか、荒れ果てた廃屋とかそういうのを撮るねんけど」 「へぇ、今流行ってるやんな」 と、亜樹が言った。悠一郎は物珍しげに亜樹を見た。 「そうやねん! よう知ってるな」 「テレビで言ってた」 「そう、こいつ張り切っててんけど、工場跡に撮影に行って骨折して帰ってきよった。動けへんからこれが作品」 「……なるほど」  と、三人はそれぞれに頷く。  例によって会場の奥の方に、悠一郎の展示スペースが与えられている。二年前は四季がテーマだったため、立体でこんもりとしていたが、今年はえらくすっきりとした雰囲気だ。 「うわぁ……」  珠生はため息をついた。  流れる水をイメージを強調した展示スペースは、綺麗に磨かれたアクリル板が壁から生えるように貼り付けられ、透明な額縁のようになっている。その枠内全体を覆うのは、向こうが透けて見えるほどに薄い、淡いブルーの布だ。光の加減によって、金色や銀色にかすかにきらめいて見えるものである。  そしてその下に、珠生の写真があった。  四枚貼られた写真、それぞれを淡く覆う薄衣(うすぎぬ)が、天窓から差し込む太陽の光を受けて、きらきらと繊細に光り輝いている。 「……きれい」 と、亜樹が呟いた。そして、しげしげと写真の中にいる人物を見て、ぱっと珠生を見た。 「あれ、これ……あんた?」 「え? そうだよ、言わなかったっけ」 「え! 知らん、あんたがモデルなん?」 「うん」 「へぇ……」  亜樹は目をまんまるにして、改めて作品を眺めはじめた。  舜平は一度見たことのある写真であったが、こうして引き伸ばしてちゃんと展示してあると、やはり迫力が違う。  一枚目は、滝の飛沫を受けながら、白い小さな花の咲く草の上に寝転んでいる写真だ。珠生の肌の上で粒になって輝く水滴や、閉じた睫毛の長さが本当に絵のように美しい。赤い唇の色も、透き通るように光を吸っている。  もう一枚は、珠生の上に覆いかぶさるような格好で、今にもふたりの唇が触れ合おうとしているかのようなシチュエーションの写真だ。珠生と舜平の顔は画面の上あたりにあり、舜平の顔は約束通り鼻先と唇、そして腕しか写っていない。写真のメインは珠生の腕と花、そして水滴であるかのような構図であり、きらきらと光を受けてきらめく水の粒が、珠生の肌の上から今にも転がり落ちてきそうに見える一枚だ。  その次は、珠生が上半身裸で立ち、じっと物言いたげにこちらを見ている写真である。こうしてまっすぐカメラを見る珠生の写真は珍しい。なにかを訴えかけるように微かに開いた唇と、熱っぽい視線、白く艶やかな肌、さらりとした胡桃色の髪……何の加工もしていないだろうに、端正な珠生の立ち姿は、透き通るように美しい。  そして最後は、珠生が舜平に口づけている写真だった。ただの宿の浴衣だったはずが、写真では影になっていて黒い着物のように見えた。舜平のしなやかな首、広い肩、そして背中が写っている。珠生が舜平の頬に触れ、愛おしげに目を閉じて、柔らかく唇を触れ合わせている瞬間を捉えた写真に、亜樹の頬が赤く染まった。       「あ、あ、あ、あんたって……写真うつりがいいんかな。めちゃきれいや」 と、照れ隠しをするように、亜樹はたどたどしくそんなことを言った。  亜樹はしげしげと写真を近くで見たり、少し離れてみたりを繰り返している。悠一郎は満足気に、亜樹の様子を見ていた。  舜平はそわそわとして早くその場から立ち去りたいといった表情をしている。珠生の相手が自分だと、亜樹に悟られたくないのである。 「この相手の人……何かどっかで見たような……」  ぎく、と舜平の肩が揺れるのを見て、悠一郎はにやりと笑った。珠生は何も言わず、ただにこにことしている。 「誰やろ、うーん……」 「も、もういいやん……ほら、他のお客さんが見えへんし」  舜平が亜樹の背を押してその場から去ろうとするが、亜樹はしばらくその場で頑張っていた。しかしさすがに本当に他の客が来たので、その場を去る。  展示会場のカフェを出て外を歩きながら、珠生は悠一郎に感想を言っていた。 「やっぱああやってキスシーンなんか撮られると、恥ずかしいね。早く出たくなった」 「しかし好評やで。今までになく色っぽいってさ」 「ならいいんだけど。でも、今回も綺麗な色だったし、普段の悠さんのテーマからずれてもないと思うし、すごく良かった」 「ありがとう。珠生くんにそう言ってもらえるなら、それで万々歳やわ」 「そんな」 「あれからまたうるさいねん。このモデルは誰やって。真正面から撮った奴展示したからなぁ……。でもあれ、めっちゃ目つきもよくて、ええなと思ったから選んでんけど」 「いいよ別に。放っといたら大丈夫だよ」 「けどまぁ、あれは凛々しい表情でよかったな。いつになく男らしい顔つきやったけど、独特の色気もあって……」 と、亜樹と前を歩く舜平もそんなことを言った。 「テーマは大人の階段やからな」 と、悠一郎がふんぞり返る。 「自然と官能のコラボレーションとか言ってなかったっけ?」 と、珠生。 「それは裏のテーマや」  そんな事を言いつつ、四人は学食で昼食を取ることにした。  クリスマスまっただ中ということもあって、学食は空いていた。白い机とカラフルな椅子が並ぶおしゃれな学食に、亜樹は「可愛い!」と楽しげに声を上げた。さんさんと日の照っている窓際に座り、四人はめいめいにランチを食べた。 「北崎さんはカメラマンになるん?」 と、悠一郎と向い合って座っている亜樹はそう尋ねた。悠一郎は笑って、頷く。 「うん、結婚式場で働くねん」 「へぇ、すごいなぁ。カメラマンとかかっこいい」 「え、そうかなそうかな。嬉しいな」 と、亜樹に褒められて悠一郎はデレデレしている。珠生はそんな悠一郎を見て笑った。 「一時はへこたれとったくせに、今は元気そうやん」 と、舜平はとんかつ定食を食べながらそう言う。とんかつといっても野菜の沢山入ったトマトソースがかかっており、いちいちおしゃれに仕上げてある。 「あんときは始めたばっかりやったからな。お前の結婚式も俺が撮ったるからいつでも言え」 「結婚式ねぇ」 と、舜平。 「そういや舜兄は彼女おらへんの?」 「……えっ? う、うーん、いいひんな」 「へーもったいない。舜兄かっこええのにな、優しいし」 「亜樹ちゃんは年上の男を褒めるのがうまいなぁ」 と、舜平は嬉しそうだ。珠生はちらりと亜樹を見て、「その優しさの百分の一でも俺に向けてくれたらいいのに」と言った。 「さて……あ、すまん。そろそろフットサル行かなあかん時間やねん。二人とも、こっから帰れるか?」 と、喧嘩に発展しそうになっている珠生と亜樹の雰囲気を断ち切るように、舜平はそんなことを言った。珠生たちは同時に舜平を見て、顔を見合わせた。 「うん、俺たち地下鉄乗るから大丈夫だよ」 と、珠生。 「せやな。連れて来てくれてありがとう、舜兄」 「ごめんな、二人共。ほんなら俺、そのまま行くから」 「うん、いいよ」 と、珠生は微笑んだ。フットサルのことを伝え忘れていたためか、珠生の表情はちょっとばかり寂しげだ。舜平は思わず珠生の頭を撫で回して抱きしめたくなる衝動をぐっとこらえ、悠一郎にも笑みを見せた。 「ほな、またな」 「おう、来てくれてありがとなー!」  早足に去っていく舜平の背中を見送った後、珠生たちはランチの続きに取り掛かった。亜樹と悠一郎は次第に打ち解け、楽しげな雰囲気でおしゃべりをしている。舜平がいないのは寂しいが、くつろいだ午後の空気は穏やかで、珠生は少しホッとした。 「はぁ、ごちそうさま。ここの学食、美味しいなぁ」  珠生は箸を置くと、うーんと伸びをした。 「悠さんの卒業制作も見れたし、年内の関心ごとはこれで全部終わったって感じがする」 「はは、そんなに気にかけてくれてたん?」 「そりゃあ、気になるよ。やつれてたもんね、旅行の時」 「せやったなぁ、ほんま、君には世話になってばっかやな」 「旅行とかも行くんや。沖野って年上の友達多いねんな」 と、亜樹はデザートのプリンを食べながらそう言った。 「うん、撮影旅行だよ」 「へぇ、楽しそう」 「舜平もあんときは落ちてたけど、無事に卒論提出できたみたいやし、よかったな」 「うん、提出してからは元気だよ」 「え? 舜兄も一緒に旅行行ったん?」 と、亜樹。 「うん。だってあれ、俺のキスしてた相手、舜平さんだよ?」 「でええええええー!!!」  学食中の人間が振り返りそうな声で亜樹が叫ぶ。  悠一郎は苦笑して、ずず、と熱い茶をすすった。

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