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五十九、悪い予感

 一方、図書館では、亜樹と百合子が宿題を持ち寄って勉強していた。  年内に終わらせて、冬休みを思い切り満喫しようという百合子の思いつきに、亜樹は付き合っているのである。滝田みすずも誘ったが、彼女は年末年始は母方の実家へ帰省するといい、今日は来なかった。  お互いの家ではどうしてもだらけてしまってはかどらないため、二人はこうして学校へ出向いてきているというわけだ。 「あぁ、もう、無理!!」  窓際の四人席を陣取っていた二人であったが、百合子がたまりかねたように呻いてバッタリと突っ伏した。亜樹は顔を上げて、百合子のつむじを見る。 「なんでさぁ、亜樹はそんなに頭いいわけ? なんでこんなのがスラスラと解けるん?」 「何でって……することないから勉強しとったからかなぁ」 「それにしたって、頭よすぎ」  百合子は机の上にべったりと伏せたまま顔だけを上げて、亜樹を見上げた。いつもはきりりとした百合子の眼だが、今はどことなくうつろである。 「そんなん、柏木に教えてもらったほうが早いんちゃうの?」 「だってさぁ、あの”何でこんなんが分からへんねん”って顔が無性に腹立って腹立って……」 「そんな顔すんの?」 「するんよ! やたら丁寧に教えてくれるけど、それが却って腹立つねん」 「ふうん。しゃあないなぁ、百合の勉強はうちが見たろ」 「うんうん、亜樹のほうがいいや」  そんな話を憚りなくしているのは、図書室に二人のほか誰も居ないからである。若松に鍵を借りて入っているのだが、百合子は普段品行方正な生徒であるため、信頼も厚いらしい。おそらく、亜樹が頼んでも貸してはくれなかっただろう。 「湊も学校来てるんよ」 「そうなんや。生徒会?」 「らしい。沖野くんも来るかもって」 「かも?」 「起きれたら来るって言ってたとか。何してんねやろな」 「あぁ……」  そうか、昨日は珠生が見回りだったのだろう。亜樹が訳知り顔で頷くと、百合子は亜樹を見上げて小首を傾げる。 「理由知ってんだ。湊は教えてくれなかったんだけど」 「え!? いや、知らんけど! どうせゲームやろ」 「ふうん……。ねぇ、結局二人はどうなってんの?」 「え?どうともなってへんけど?」 「クリスマス、デートしてたって噂、すでに相当流れてるよ。部活でも持ちきりだったし」 「デートって……」  百合子は身体を起こして頬杖をつき、にっこりと笑った。 「楽しかった?」 「……うん、楽しかった」 「なんやねーん!! 良い感じやんか!」  はしゃぎだす百合子をたしなめようと思ったが、今は二人しかいないのだ。亜樹は溜息をついて、微笑んだ。 「沖野の気持ちは分からへんけど……一緒にいていっぱい笑ってくれたから、それで満足やった」 「亜樹……」 「それでいいねん。うちは」 「亜樹ったら……なんという健気……!」  百合子は本気で目を潤ませながらそう言った。 「こんなに可愛い面があるって、沖野くんに大声で教えてやりたいわ」 「いいって、そんなん……」  ――ざわ……  亜樹はふと、学校を包み込んだ違和感に顔を上げた。  がたっと立ち上がって窓の外を見下ろし、今は誰もいないグラウンドを見回す。 「亜樹?」  ――なんやろう……すごく、嫌な感じがする……。  おぞましく、足元から何かが這い上がってくるような。ぞわぞわと身体が粟立つような……。  亜樹の脳裏に、夢の中で見た風景が蘇る。  人喰(ひとばみ)というあの不気味な妖が、ここに攻めてくるというあの夢だ。 「帰ろう! 百合子、荷物まとめて!」 「え? え?」 「早く早く!」 「あ、うん……」  亜樹の剣幕に押されて、百合子もいそいそと慌てて荷物を片付け始めた。  とりあえず柏木と合流しよう。亜樹は百合子を促して、図書室を出た。  + 「おい、起きろ、珠生」  身体を揺さぶられ、珠生ははっとして目を覚ました。がばりと起き上がると、そこはリビングのソファの上だった。いつも背もたれにひっかけてある毛布を身体に巻きつけて眠っていたらしい。  舜平は腰に手を当てて珠生を見下ろしている。 「こんなとこで寝たら風邪引くやろ」 「……あれ、今何時?」 「十二時すぎ。バイト終わったから寄ってみたんや」 「あ……お疲れ様」  健介が長期に渡っていないので、珠生は舜平にスペアキーを渡している。クリスマスの前後から、舜平はちょこちょことここで寝泊まりしているのである。  珠生は昨晩、彰と市中見廻りに出ており、帰宅したのは午前四時だった。結局何も見つからないのに、市中の瘴気は少しずつ強まりを見せているという、不気味な夜だった。  彰は珠生をバイクに乗せたまま、東山にある山手の展望台のような場所から、京都市内を見渡した。そして悔しげに呟いていたものだ。 「……僕らをこんなにも手こずらせるなんて。相手は一人なのにな……」  ヘルメットのマイク越しに聞こえてくる彰の声に、珠生も頷く。 「きっと一人だから、うまくすり抜けていられるんだよ、きっと」 「……そうだね。だめだな、僕はちょっと焦っているらしい」 「らしくないよ」  彰はふっと笑って、エンジンをふかした。 「危ない危ない、そうなっては向こうの思う壺だ」  重低音を響かせて、冷たい風を切りながら山を下っていく。真っ暗な山道を照らすバイクの白い明かりだけが、二人の行く先を照らす。すれ違う車もなく、静かすぎる夜だった。  凍てつく寒さの中、二人は市内へと戻ったのだ。 「昨日はどうやったん?」 という舜平の問に答えながら、珠生はぴったりとした黒いズボンに包まれた自分の足を見下ろした。ぎゅっと拳を握り締め、珠生は昼間なのに暗い窓の外を見やった。 「……なんか、胸騒ぎがするな。昨日からずっと……」 「天気のせいか? 午後から大雪らしいから」  舜平は毛布を畳みながらそう言った。珠生の思いつめた横顔は、ぴんと張った糸のように張り詰めたものが感じられる。 「シャワーでも浴びてこいよ。その格好、そのまま昨日は寝とったんやろ」 「あ。うん……」 「今夜は俺と出るぞ。大丈夫か?」 「うん、平気だよ」  その場でズボンを脱ぎ始める珠生から、舜平は慌てて目を逸らした。珠生は革のズボンを脱ぎ捨て、靴下を脱いで裸足になると、バスルームへ向かう。  熱いシャワーを浴びていると、少しずつ体の疲れが流れて消えて行くような感じがする。それでも、胸騒ぎは消えない。  珠生は壁に手をついて目を閉じ、頭から熱湯を浴びながら意識を集中した。  不意に、学校のイメージが強く閃く。  そして、学校を包み込むような玉虫色の結界の姿。  そして、険しく歪む亜樹の顔……。 「……!」  珠生は目を開いた。  ――学校で、何かが起きる。  これだけ警備を立て、自分たちも見回りに出ていたというのに、相手は再び学校を狙ってくるというのか。 「舜平さん! 学校だ!」  ずぶ濡れに素っ裸の状態で出てきた珠生に、舜平は仰天した。思わず目をそらし、「あ、アホか! 身体拭け!」と喚く。 「あっ」  手早く身体を拭き、下着だけを履いてバスタオルを首に引っ掛けた珠生は再び舜平に詰め寄った。それでも舜平はたじろいでいる。 「学校へ行かなきゃ。なにか起こる気がするんだ」 「学校? 明桜か?」 「そう。ねぇ、天道さんに連絡取ってみてくれないか。なんか嫌な予感がする」 「お、おう」  ポケットから携帯電話を取り出して、舜平が電話をしている中、珠生はもう一度黒革のズボンを履き始めた。ジャケットの下に着るものを探して部屋をうろついていると、舜平の表情が険しくなってくる。 「……繋がらへん」 「早く行こう、なんか……嫌な感じなんだ。先輩にも、連絡して……」 「落ち着け珠生、それは俺がやるから、お前はさっさと着替えんかい」 「あ、うん……」  そわそわと家の中を歩き回っていた珠生は、はたと立ち止まって舜平を見た。ダイニングに座っていた舜平は、立ち上がって珠生の濡れた髪の毛を、肩に引っかかっていたバスタオルでがしがしと乱暴に拭う。 「うわっ、やめてよ!」 「外めっちゃ寒いで。こんな濡れた髪で出て行ったらあかん」 「そんな事言ってる場合じゃ……」 「寒がりのくせに。さっさと厚着してこい。その間に連絡済ませといてやるから」 「うん……分かった」  いそいそと髪を乾かしている上半身裸の珠生を見ながら、舜平は彰と藤原に電話を入れた。  胸騒ぎ……か。  確かに、どことなく今日は市内を走り回っていて、風を感じることが少なかった。人気も少なく、どことなく街中がひっそりしているような。  それは年末という時期や、この天候のせいかと思っていたが、珠生のこの慌てぶりを見ていると、そうではないのかもしれない。  服を着込んで戻ってきた珠生を促して、二人は急いで明桜学園高等部へと向かった。  

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